大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

2018.08.17

開発秘話

大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/

74年6月、下野し帰郷した西郷隆盛(46歳)が私財を投じ、旧鹿児島城内に私学校を創設。これは、銃兵や砲兵を養成する軍事専門学校で、定員800名にもなったが、入学は士族に限られた。これと対になる北の屯田兵も、75年5月、琴似(現札幌の東北1駅目)に入植。開拓使学校も札幌(現時計台北)に移す。かつて新島譲も習った、マサチューセッツ農科大学学長クラーク(50歳)を教頭に招き、76年8月、札幌農学校とする。また、同75年、改革派教会宣教師となった新島(33歳)が帰国し、11月、米国で集めた寄付を元に、京都の公家屋敷別邸で、同志社英学校を開く。当初は生徒8人たらずだったが、翌76年10月には、海老名弾正、徳富蘇峰ら、熊本のクリスチャンの若者35名が合流。旧薩摩屋敷に移り、規模を拡大。

伊藤博文(35歳)は、76年11月、工部大学校付属として工部美術学校を開く。イタリアから洋画家フォンタネージ(1818~82、58歳)、彫刻家ラグーサ(1841~1927、35歳)、家屋デザイナーのカペレッティ(1843~87、33歳)を招き、山本芳翠(1850~1906、26歳)、浅井正(1856~1907、20歳)、小山正太郎(1857~1916、19歳)ら、60名近くが入学。また、この学校は女性の学生もいた。しかし、この美術学校は、あくまで工部大学校の付属であり、殖産興業の一環として、輸出可能な美術品製作を目指していた。


東京大学とイカサマ外国人教授たち

このころ米国では、南北戦争に敗れた南軍残党の西部移住とともに鉄道網が拡大。しかし、教育は行き届いておらず、字が読めないため、鉄道で巡回してくる教養講演会(TEDのもと)が庶民の娯楽として人気を博した。たとえば、『トム・ソウヤーの冒険』(1876)を出すまでのマーク・トウェイン(1835~1910、41歳)は、ハワイやヨーロッパを旅行し、その記事を新聞に連載した以上に、現地の体験談をおもしろおかしく語る講演会で生計を立てていた。また、発明もブームになっていた。貧しいオハイオ州生まれのエジソン(1847~1931、30歳)は、電信係の経験を生かし、株式相場表示機を発明。77年には、蓄音機を商品化して財を成し、ニュージャージーに自前の研究所を作り、エンジニアたちを集めて、企業化に乗り出す。

一方、日本では、造幣寮首長キンダーの銀貨や技師モレルの鉄道が、英国植民地規格であることが問題となった。これでは、これからいくら苦労して不平等条約を改正したとしても、その後も永遠に英国支配を抜け出ることはできない。すでにモレルは71年に横浜で死去していたが、キンダーについても、75年に解任し帰国させ、日本が独自にドイツを範とする必要性が強まる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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