ルネサンスとバブル国家

2018.07.17

開発秘話

ルネサンスとバブル国家

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/15世紀のヨーロッパは、ルネサンス文化の花が開いた、というような温和な時代ではない。それはむしろ、官僚制や常備軍で長期経営を見据えた近代の絶対政国家と違って、欲得で縁戚を拡大し、交易の収益を傭兵に注ぎ込んで周辺侵略を重ねる独裁者たちの国々が、芸術などにも放埒に資産を費やし、財政的にも自滅破綻していった一種のバブルだ。/

ルネサンスの背景

ルネサンスは、わかりにくい。自国中心主義の歴史家たちが、それぞれの国で、かってに前後に拡張してしまったからだ。だが、大づかみに言えば、それは中世と近代の過渡期であり、15世紀のブルゴーニュの民衆文化とフィレンツェの古典文化の再生を指す。

ヨーロッパ中世とは、ローマ教皇を中心として教会が行政を兼ねるヒエラルキア(神聖管理)の社会だ。一方、近代は、絶対王政が領邦国家を支配する社会。ところが、14世紀のうちに教会権威は失墜してしまうにもかかわらず、近代国家が成立するのはようやく16世紀なってから。そして、この隙間の15世紀にルネサンスがある。ここにおいては、いまは無き、国境をまたいだアンジュー伯帝国、ブルゴーニュ=フランドル(下ロレーヌ)公国、ミラノ公国、ヴェネチア共和国、フィレンツェ共和国、そして、アラゴン=ナポリ連合王国などこそが主な時代のプレイヤーとなった。

もうすこし細かく見ていこう。9世紀のノルマン人ヴァイキングの襲来の後、かつての西フランク王国、つまり、フランスは、まったくの弱小国になってしまっていた。というのも、ノルマン系勢力を名目上の臣下の公や伯にしており、それも彼らが十字軍貿易で莫大な財を成して事実上の独立国になり、くわえて、それらのひとつ、アンジュー伯家(=プランタジネット家)が複数の公国や伯国を縁戚支配し、イングランド王位まで得ていたためである。

だが、1291年に十字軍が中東から完全に追い落とされると、フランス王フィリップ四世は、1303年に教皇をローマ郊外アナーニ村で襲撃。1307年には、商業路を握る聖堂騎士団員を逮捕処刑。08年、教皇庁を強引にトゥールーズ伯国内のアヴィニョンに遷す。しかし、フランス建国以来のカペー朝も、23年に断絶。これをヴァロワ伯が継いだが、本アンジュー伯家(イングランド王)も継承権を主張。かくして、1337年、百年戦争となる。これは、英仏の戦いというより、十字軍で伸張した旧ノルマン系に対するゲルマン系の復権闘争にほかならない。

おりしも、十字軍の帰還者や略奪品から疫病が蔓延。とくに1347年には、ペストが上陸。数年にわたってヨーロッパ中で猛威を振るい、人口が半減するほどの甚大な被害となった。だが、教会も王権も、方策をまったく持たなかった。それどころか、外部と接触し、財宝を入手する聖職者や王侯貴族ほど、疫病にかかった。外部や財宝と縁のない庶民も、むしろ大勢が集まる教会に行って祈ったりすると、たちまち疫病に感染。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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