大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

2018.08.17

開発秘話

大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/

つまり、このころ、尊王の国学は、もはや天皇にも見捨てられた京都の一角に封じ込まれていた。一方、徳川家は、あいかわらず幕府が薩長に代わっただけとしか考えておらず、いずれ元に戻そうと試みていた。新政府の大久保にしても、はなから天皇親政など考えておらず、公家たちもお飾りにすぎなかった。まして、福沢は、英国流の立憲君主制、それどころか、米国式の天皇無き共和大統領制を目指していた。


殖産興業と不平士族

ただでさえ不平等条約を課せられているうえに、急務である富国強兵のための大量の機械や武器の輸入で、日本経済は破綻寸前だった。維新を賄った太政官札は、信用を失って暴落。一方、英植民地銀行オリエンタルバンクを中心として、外債が大量にあり、その金利は15%以上。にもかかわらず、大蔵大輔大隈(32歳)はさらに外債を増し、70年には国債も発行。太政官の年収2億円相当を上回る年収2億5千万円相当で、鉄道経営者キンダー(1817~1884、53歳)を造幣寮首長に迎え、「長州五傑」のひとり、遠藤謹助(34歳)とともに銀貨を鋳造させ、国内経済を安定させる。

しかし、外債については返済の目途が立たない。輸出品といえば、生糸か、せいぜい陶磁器くらいしかなく、それも粗製濫造で価格を落としていた。英人技師モレル(1840~1871、31歳)の助言を受け、「長州五傑」の伊藤(30歳)と山尾(33歳)は、71年、工部省を興し、工部大学校を計画する。また、山尾(34歳)が、71年4月、英銀オリエンタルバンクからの借入で幕府の仏銀債務を返済し、担保になっていた作りかけの横浜造船所を接収し完成。また、モレル(32歳)を「長州五傑」の井上勝(29歳)が補佐し、72年10月、新橋~横浜に鉄道を開業。さらに、72年11月、大隈(34歳)が中心となって、フランス式で官営の富岡製糸場を作った。これらの新規機械設備は、さらに財政を圧迫し、悪循環に陥らせた。

72年、慶応出の少壮文部官僚、九鬼隆一(1852~1931、20歳)が開成学校の監事として赴任。彼は、二万石にも満たない兵庫綾部藩(いちおうは官軍)家老の養子で、薩長土肥を中心とする藩閥政府を憎んでいた。当時、教育予算の4割近くが260名の留学費用に充ており、旧幕臣や薩長土肥の子弟の利権と化していた。文部省は、効率化のため、教員招聘に方針を転換。ドイツ留学生、青木(27歳)との連携で、医学は、早くもオランダ式からドイツ式に切り替えられ、大学校東校(医学部)は、71年、プロシア軍医のミュラー(1824~93、47歳)とホフマン(1837~94、34歳)を招いて、教育カリキュラムを改革。かれらに続いて、73年には古生物学者ヒルゲンドルフ(1839~1904、34歳、ベルリン自然博物館員)が来日し、同校で動植物学や鉱物学を講義。また、73年、少壮の文部官僚、九鬼(21歳)が渡欧し、現地留学生の帰国を促した。青木(29歳)は、いったん帰国したものの、すぐ外務省に入り、74年、外交官としてふたたびドイツに赴任。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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