大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

2018.08.17

開発秘話

大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/

この影響は、ただちに東京大学にも現れた。81年6月、法文理三学部に医学部も統一され、その総理(学長)に加藤(46歳)が就いたが、彼は、蕃書調所のころからもとよりドイツ派で、一時は天賦人権説に傾いたものの、82年、『人権新説』を出版。スペンサー風の国家有機体説を唱えながら、モースやフェノッロサなどと同じような通俗進化論に基づき、キリスト教的利他主義を虚妄として、むしろ同時代のニーチェを先取りし、利己主義を是認、その生存競争による適者進化の現実を見据え、国家無くして権利無し、として、下野した大隈らの自由民権運動の批判にまわった。

また、フェノッロサ(29歳)の政治学は、あまりに休講が多く、あまりに内容がひどいかったため、82年秋の新学期から政治学教授は、新たに招聘したドイツ人ラートゲン(1856~1921、25歳)に代えられてしまうことになる。彼は、ベルリン大学等で学び、国家司法試験にも合格し、『ドイツにおける市場の成立』という研究論文でストラスブール大学の正規の法政治学の博士号を取得したという正統アカデミズムの経歴を持つ人物。正体不明のフェノッロサとは較べものにならない。


国粋派と洋化派の対立

後が無いフェノッロサは、82年5月、龍池会で、独自の美学論に基づいて、徹底的に洋画を攻撃し、日本画を礼賛する講演をぶち上げ、その講演録がベストセラーになる。おりしも、6月、巡回公演師モース(44歳)が御大尽ビゲロウ(1850~1926、32歳)を連れて再来日。内科医の祖父が薬草学に通じ、ヘロインで巨万の富を築いた。本人もハーバード大で医学を学んだが、パリ留学後に止めてしまい、パリで知った日本美術品のコレクターとして遊び暮らしていた。まだ東海道に鉄道はできていなかったが、7月、彼ら三人は、駅馬車や駕籠を乗り継いで、関西を旅行。名家や寺院から多種多様な美術品、果ては仏画まで、を叩き値で買い漁り、国外に持ち出した。

このとんでもないケタ外れの御大尽をパトロンに得て、フェノッロサは東京でも勢いづいた。一介の教授、それも馘首予定にも関わらず、10月の卒業式で総長加藤らと並んで登壇し、卒業生が政治関与することを厳格に戒める演説をぶつ。その一方、自分自身は政治的なコネを駆使し、哲学科に移って、かろうじて大学に残る。米人のくせに、やむなくドイツのカントなどを語ったようだが、学生は数名もいない惨憺たるありさまだった。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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