大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

2018.08.17

開発秘話

大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/

内務省の新宿農事修学場を移転し、77年2月、駒場農学校として開校。札幌農学校が米国式大規模農法であるのに対し、これはドイツ式畜産混合農法をめざす。それゆえ、農学科20名だけでなく、より大きな獣医学科30名が置かれた。ただし、施設が間に合わず、従来の新宿の寄宿舎に寝泊まりしながら、駒場野5300坪を自分たちで開墾しなければならない。

同77年2月、西郷の私学校が挙兵、西南戦争となる。そのさなか、4月に東京大学が開校。これは、先行してドイツ式に切り替えられていた旧大学校の医学東校(本郷)はそのままながら、予備教養課程しかなくなってしまっていた洋学南校の開成学校(一橋)に、ようやく上位専門課程の法文理三学部に整え直すもので、皇室洋書侍講の加藤弘之(41歳)が三学部総理として事に当たった。三学部の学生は、157名。うち理学部が102名を占め、法文は、合わせても55名にすぎない。

ここでは、英人とクリスチャンを教員から排除することが喫緊で当然の前提だった。文学部は、第一科洋学(哲学・史学・政治学)と第二科和漢学からなり、開成では米国聖公会老宣教師エドワード・サイル(1812~90、65歳)が哲学(道義学)も教えていたが、東大第一科では、前年にミシガン大学留学から戻ったばかりの気鋭の外山正一(1848~1900、28歳、元旗本、勝海舟の弟子)が、これに代わって哲学を担当。老サイルは史学にシフト。政治学については担当教授は空席のまま。まして、細分化された理学部については、専門教授がおらず、たとえいてもかなり怪しい連中だらけ。

理学部では、駐独公使青木周蔵(33歳)の推薦によって、ミュンヘン大学で学位を得たばかりで、人格にも問題の多い独人青年ナウマン(1854~1927、23歳)を地質学教授に大抜擢。これが英人工部大学校教授ミルン(1850~1913、27歳、リバプール鉱山技師)とともに、若さと体力に任せて日本中の山野を駆け巡り、全国測量と地質調査。海岸線のみだった伊能忠敬の地図を、内陸の等高線まで完成させる。じつは、彼らは、文字通りの山師。政府は国防上の理由から正確な日本地図を必要としていただけでなく、殖産興業のために鉱物資源の発見と開発を急いでいた。

また、同77年6月、モース(1838~1925、39歳)なる男が来日。貝の採取許可をとるため、文部省に向かう途中、横浜から乗った汽車の車窓で大森貝塚を発見した、とか。もともと高校中退の貝オタクで、マサチューセッツ州ハーバード大学教授の助手にすぎなかったにもかかわらず、漫談のような巡回教養講演で荒稼ぎ、メイン州ボウディンカレッジに潜り込み、米国科学振興協会(当時はまだ南北戦争後に再発足したばかりで、入会資格審査も無く、田舎者の俗物シロウト好事家の集まりだった)の幹事となっていた。それが、かつてミシガン大学の巡回講演で外山と面識を得たので、日本まで研究調査に来た、などと言う。その口のうまさに載せられ、外山は、これを月俸370円(年収約5000万円相当)で理学部動物学教授のポストを与え、江ノ島に実験所まで作ってやってしまう。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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