大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

2018.08.17

開発秘話

大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/

モースの推薦で、翌78年、メンデンホール(1841~1924、37歳)を呼び寄せ、理学部物理学教授とする。オハイオ出身の彼は、エジソン同様、独学で教養を身に着け、地元の小学校教師となり、73年からオハイオ農業・機械カレッジの物理教授に抜擢され、同校の名誉学位を得たばかりだった。これもまた、およそアカデミックな経歴ではないが、努力家ではあった。

もう一人、モースが推薦したのが、フェノッロサ(1853~1908)。スペイン系船上移民楽師(つまり「ジプシー」)の子ながら、ハーバード大で哲学を学び、神学校に進むも、棄教して中退。こんどはボストン美術館付属美術学校に入るが、父の自殺で、就職先を探していた。およそ政治学とは関係がなかったが、78年8月、これが東大の政治学の教授になった。月俸300円(年収3600万円相当)。

もっとも、文学部の中心となるべき哲学教授外山からして、ひどかった。講義は、社会進化論を語るスペンサーの著作を、原文で学生と輪読するのみ。モースは、ダーウィンの進化論に基づいて、天地創造説を採るキリスト教を批判。フェノッロサに至っては、モースや外山に媚びてダーウィンやスペンサーの名を使い、極端な国家主義で流行の自由主義を揶揄して、客いじりをする寄席の落語まがいの放談放題。学生を飽きさせはしなかったが、学生たちにまで、「才あまりあって学識の積貯無し」と侮られる始末。


通俗的進化論

しかし、外山が輪読のみで自説を語らなかったのは、理解できないではない。ダーウィンの『種の起源』が出版されたのが1859年。スペンサーの『総合哲学体系』(第一原理・生物学原理・心理学原理・社会学原理)が62~96年。当時、人間はサルから進化した、というセンセーショナルなテーゼのみが世界を席巻したが、海外では、原本がわかる人、そもそも本の字を読める人が、まだほとんどいなかった。それで、中身も知らず、生存競争だの、自然淘汰だのという言葉だけが独り歩きした。それを煽ったのが、モースのような半端な巡回教養講演師だった。

進化論そのものは、もともと、王政から共和政を経て帝政に至るフランス革命期の激動から得られた知識人の一般的な実感だった。革命かぶれのドイツ人哲学者ヘーゲル(1770~1831、37)は、思いつきの空虚な観念が、現実社会での実証的実験を経て、単純で抽象的なものから複雑で具体的なものへ進化していく、と考え、これを『精神現象学』(1807)として発表。また、フランスの自然学者ラマルク(1744~1829、63歳)は、無脊椎動物の実証的研究から、種は固定されたものではなく、要不要で器官を発展退化させ、その獲得形質を継承させることで進化する、とし、これを一般向けの『動物哲学』(1809)で紹介した。

Ads by Google

この記事が気に入ったらいいね!しよう
INSIGHT NOW!の最新記事をお届けします

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

フォロー フォローして純丘曜彰 教授博士の新着記事を受け取る

一歩先を行く最新ビジネス記事を受け取る

ログイン

この機能をご利用いただくにはログインが必要です。

ご登録いただいたメールアドレス、パスワードを入力してログインしてください。

パスワードをお忘れの方

フェイスブックのアカウントでもログインできます。

INSIGHT NOW!のご利用規約プライバシーポリシーーが適用されます。
INSIGHT NOW!が無断でタイムラインに投稿することはありません。