日本の本当の主神:オオモノヌシと物部氏

2020.01.01

開発秘話

日本の本当の主神:オオモノヌシと物部氏

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/奈良は「磯城」、大阪は「志紀」だが、読みはどちらも「シキ」だ。あちこちに「シキ」を含む地名社名を見つけることができる。磯城族は、オオモノヌシの祭祀を一任することで天皇を受け入れ、自分たちは帰順して「物部氏」となった。/

古代、七世紀末まで、関西には奇妙な風景が広がっていた。左が大阪、右が奈良。大阪は大きさをやや縮小しているが、驚くほどの相似形であり、当時の人々も、このことを強く意識して、対になる地名や施設を作った。

いや、奈良に海は無いだろ。そう言うだろうが、じつは巨大な湖があったのだ。数百万年前まで、むしろ今の琵琶湖は無く、したがって淀川も無かった。一方、南の葛城山系から生駒山系、さらには北の比叡山系までつながって大きく堰き止めており、このため、近畿内陸の水はすべて奈良盆地に流れ込んでいた。この状況が変わるのは、生駒山系と北の比叡山系の間に琵琶湖からの淀川ができ、これに奈良以東の滞水が木津川として北に抜けたこと。また、生駒山系と南の葛城山系の間に、浸食でわずかに大和川ができ、西へも滞水が排出された。それでも、奈良盆地には、大きな湖ないし沼地が残っていた。これを古大和湖と言う。


大阪の方も、いまでこそ大和川が大阪市と堺市を分断しているが、あれは、忠臣蔵の吉良邸討ち入りのあった1703年になって、大規模改修工事で付け替えられたもの。それ以前は、上流の奈良の初瀬川と同様、西北へ流れており、大阪城の北で淀川に合流していた。それも、もとより奈良からの土石流で、周辺より水面の方が高い天井川となっており、堤防でかろうじて支えているようなもの。さらにそれ以前は、海水も入り込むような古河内湖だった。

この地域、奈良は「磯城」、大阪は「志紀」だが、読みはどちらも「シキ」だ。北の神社も、奈良は「石上(いそのかみ、磯神)」、大阪は「石切(いシキり)」。南の神山は、奈良は「三輪山(みわやま、美和山)」だが、大阪は「信貴山(シギさん)」。あちこちに「シキ(磯)」を含む地名社名を見つけることができる。『書記』によれば、神武東征以前からこの両低地域の原住民は、両域を隔てる南の山の「葛城(かずらき)族」と対になる「磯城(しき、師木)族」だった。

磯城族は、後に天皇に帰順して「物部氏」となり、かつての名のとおり、河原の中州に石で堅牢な城を築いた。その代表が奈良の「磯城瑞籬宮(しき・みずかきのみや)」と「磯城嶋金刺宮(しきしま・かなさしのみや)」。第10代崇神天皇だか、第29代欽明天皇だかの時代に作られたというが、こんな土石流が噴き出すような川の出口に絶対安全な宮城を作る技術があったことは驚くべきことだ。以前、「崇神天皇の住吉大運河計画」(https://www.insightnow.jp/article/9465)や「古墳は土石流対策の灌漑施設?」(https://www.insightnow.jp/article/9474)にも記したが、大阪の住吉大運河や伝第15代応神天皇陵も、彼らのロストテクノロジー無しにはありえないものだった。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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