布団はダメ:押入は茶の湯のホームバーだった

2019.01.21

ライフ・ソーシャル

布団はダメ:押入は茶の湯のホームバーだった

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/押入は、茶碗をしまうところ。いまで言えば、それはホームバー。茶碗や茶釜でなければ、エスプレッソマシンとか、カクテルのセットとか、湯沸かしやミニ冷蔵庫とかをしまっておくところ。/

押入に布団をしまってる人! それは間違っている。あれは、茶碗をしまうところだ。だいいち、偉そうな床の間の隣に布団を入れるなんて、おかしいと思わなかったのか。

室町時代の書院造だと、西の窓際が机、その右横が床の間、そして、その手前が棚。この棚に、眠気覚ましに飲む茶の道具を飾った。といっても、見せびらかすほどのものでなければ、襖で隠した。これが、押入。だから、いまで言えば、それはホームバー。茶碗や茶釜でなければ、エスプレッソマシンとか、カクテルのセットとか、湯沸かしやミニ冷蔵庫とかをしまっておくところ。

茶の歴史も、伝承伝説で話を盛りすぎ。天皇が、将軍が、禅僧が、とかいうのは、近年、どうも嘘くさいのがわかってきた。いわゆる抹茶が宋(中国)から入ってくるはるか昔から、煎じ薬、つまり、薬草を煮出したハーブティーのようなものが日本にもあって、これが寺社の祭礼で、滋養強壮に効く、とか口上を述べながら、テキ屋(神農系の怪しい行商人)の露店で売っていた。

一服一銭。これが売り文句。この「一銭」というのは、本来は煎じ薬の重さ、一貫の千分の一、3.75gのことなのだが、庶民には通貨の一銭=一文と思われ、江戸時代まで五百年間、値段が変わらなかった。ちょうどイタリアのバール(立ち飲み喫茶店)のエスプレッソが、いまでもどこでもたいてい1ユーロのようなもの。

茶席というと、ろくに窓も無い暗い茶室で緊張を強いられるようなイメージがあるが、こんな露店の時代には、まだ茶室など無い。緋毛氈(赤いフェルト)すら無い。客は、立ち飲み、歩き飲み。立礼は明治の京都博覧会で裏千家十一世が始めた、などと言う人もいるが、室町時代は、亭主も立礼が当たり前。当時、すでに御園棚のような、アウトドアでも湯が湧かせる、ヤカンと火鉢がセットになった銅壺(どうこ)があって、これをボテ振(棒の前後にぶら下げる)でどこへでも持っていって、そこに茶店を出した。

そのうち、半俗半僧のような流れ坊主も、テキ屋と競って、寺社境内で、本格的な抹茶を売り出す。こうなると、いかにショーアップして道行く参拝客にアピールし、立ち止まらせるかが勝負。テキ屋がメカニカルな御園棚を無骨にガチャガチャ見せつけている様子を横目に、坊主は、なにも無いところに運び出前でちゃちゃっと道具を並べ、茶筅の音も軽やかに、香り高い茶を点(た)てる。まさにバーテンダーがボトルを振り回しカクテルを組み立てるがごとし。つまり、その後に精神性を高めた茶道も、元をたどれば、南京玉すだれや蝦蟇の油売りと同じ、一種の大道芸。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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