大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

2018.08.17

開発秘話

大学事始:蘭学から英学、ドイツ学へ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/いまの東京大学の前身は、戦前の東京帝国大学。しかし、それよりさらに前に、旧「東京大学」があった。1877年(明治10年)4月、いまだ九州で西郷隆盛の西南戦争が続く中、それはできた。/


洋化派の敗北と国粋派の自滅

87年3月、上野公園で東京府工芸品共進会(3.25~5.25)開催。ここでは、洋画が再び展示された。鹿鳴館接待が功を奏し、条約改正はあと一歩だった。同年4月20日、伊藤総理(46歳)官邸に英国公使夫妻ほか400名を招き、一大仮装舞踏会「ファンシーボール」が開かれる。伊藤はベネチア仮面貴族、外務大臣井上(51歳)は三河万歳。政治家だけでなく、東大総長渡辺は西行法師、法学部長穂積は恵比寿様、植物学教授矢田部は大黒様、と大いに努力。

しかし、この媚び過ぎた乱痴気騒ぎは、国粋主義者たちの逆鱗に触れ、新聞は、鹿鳴館の華とされた戸田伯爵夫人と伊藤総理の関係を騒ぎ立て、老勝海舟(64歳)も「淫風の媒介」と伊藤に苦言を呈する。結果、外遊中で舞踏会に参加していなかったった黒田清隆(47歳)に期待が集まる。くわえて、条約改正案に外国人判事任用などの屈辱的条件が残っていることがわかると、いよいよ洋化派(長州閥)に対する批判が高まり、井上は、9月、外務大臣を辞任。伊藤(47歳)も、翌88年4月に辞任して、代わって黒田(48歳、薩摩閥)が第二代総理大臣に。

フェノッロサ(33歳)と岡倉(25歳)は、九鬼の妻を連れて、87年10月に帰国。遅れて88年2月、九鬼(36歳)本人も帰国。森有礼(41歳)は文部大臣に残ったが、全国の学校巡視に追いやられ、黒田新総理の下で、九鬼は宮内省図書頭となり、帝国博物館の準備のため、臨時全国宝物取調掛を設置して、フェノッロサや岡倉とともに、5月から9月、10月から翌88年2月にかけて近畿の美術品を調査。一方、森は、全国巡視の途中、礼を尽くして各地の寺社にも参拝したが、11月に訪れた伊勢神宮外宮で、土足で殿に上がり、ステッキで神簾を上げて覗き込んだ、と、神官たちが話をでっちあげ、檄文を流した。連中は、森がクリスチャンだと思い込み、全国の学校がキリスト教化されるのではないか、と恐れていた。しかし、世間のほとんどの人々は、だれもこのあまりに安っぽいウソを相手にしなかった。

89年2月、東京美術学校が開校。フェノッロサ(35歳)の意向どおり、日本画を中心とするものだった。だが、初代校長は、彼ではなく、岡倉(26歳)。文部官僚の九鬼(37歳)と愛弟子にハシゴを外されたのだ。フェノッロサは、激怒。とはいえ、国粋主義者たちが、日本の美術品を安値で買い叩いて国外に大量に売り払うような不逞外人をいつまでも担ぎ上げているわけがないのは、当然。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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