中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(前編)

画像: シャルルマーニュの使者を迎えるアッラシード

2022.01.14

ライフ・ソーシャル

中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(前編)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/

おまけに、イスラムもヨーロッパへの侵略を開始。チュニジアのアグラブ朝がビザンティン帝国支配下のシチリア征服に乗り出し、さらにイタリア半島南部に迫る。アッバース帝国本体も小アジア(現トルコ)アンカラ市まで進出。カール大帝を継いだフランク王ロタール一世(795~王40~55)は、841年、ノルマン人に現オランダ沿岸部の支配を認め、彼らをノルマン侯として懐柔を試みますが、フランク王国自体が兄弟間の相続争いで、843年のヴェルダン条約により三分割されてしまい、自分は主要な中フランク王国を取る。

J ああ、それ、アルプスを越えてオランダから中部イタリアまで南北にやたら細長い、廊下みたいな変な国でしょ。

あれ、当時の主要都市をつないだ街道国家なんですが、民族もバラバラで、首都アーヘン市の宮廷いて管理できるような領土ではありません。中部イタリア、かつてのランゴバルト王国領は、カール大帝に征服されて、西側が教会領、東側がスポレート公領となっていましたが、この隙に、アグラブ朝は、846年、その西側の教会領を襲撃略奪。このため、東側のスポレート公が単独で戦って撃退。

そうこうしているうちにも、ノルマン族は北側からの侵略を進め、エルベ河、ライン河、セーヌ河、ロワール河の内陸まで攻め込む。それどころか、ノルマン族はイベリア半島を回り、地中海に入って、コンスタンティノープル市に到達。ポーランドのヴィスワ河やラトヴィアのダウガヴァ河と、黒海側のドナウ河、ドニエストル河、ドニエプル河の両方から、スラブ族の南ロシア平原を征服。

J これじゃ、ヨーロッパはよほど混乱していたでしょ。

ところが、不思議なことに、バグダード市の知恵の館同様、こんな時代でも西フランク王国パリ市シテ島の宮廷学校は、むしろ活況を呈していました。というのも、ノルマン族の襲撃から逃れて来た多くのアイルランドの文化人たちが、ここに招かれていたからです。彼らは、辺境の修道院で、五世紀の初めにキリスト教が伝わった当時のヘレニズムかぶれのローマ文化をそのまま残しており、これが九世紀の人々には、むしろとても新鮮だったのです。

J ああ、辺境だったからこそ、タイムカプセルのように、その後のゲルマン化やフン族の混乱の影響を受けなかったわけか。

ええ、それで彼らは、カール大帝のラテン文化ルネサンスに続いて、ギリシア文化ルネサンスをもたらします。とくにエリウゲナ(c810~c877)は、ギリシア語にも堪能で、五世紀に整えられたローマの自由七科にも詳しかった。しかし、エリウゲナは、御用学者として、やっかいな問題に巻き込まれます。このころ、ある修道士が、天国へ行く者と地獄へ行く者は最初からそれぞれ決められている、という双対予定説を唱え出し、信仰を奨励したい教会や国王は、これを断罪する理屈をひねり出せ、と依頼されたのです。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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