『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(1)

2021.09.09

ライフ・ソーシャル

『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(1)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/

/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/


『徒然草』の執筆のとき

 そのころ、鎌倉幕府の実権は、執権北条家の私的な内管領、長崎家が握っており、1326年3月13日、これを嫌って第14代執権北条高時は病気を理由に二四歳で出家。前年末に生まれたばかりの側室の赤子が名目だけ執権を継ぐはずだったが、これに正室外戚の安達家が反発し、高時の弟、泰家を推し、長崎家は、出家隠居しようとしていた北条金沢貞顕を引っ張り出して来て、16日、15代執権に就ける。それで、泰家の方が出家隠居したものの、貞顕暗殺を企てているとのウワサが立ち、就任わずか10日で、26日に貞顕は辞任隠居。結局、4月24日に北条家庶流赤橋守時が最後の第16代執権に。

 一方、京でも、同26年4月、邦良親王が死去し、持明院統の量仁親王が立太子。先の正中の変(1324)の事前発覚でしばらくおとなしくしていた大覚寺統の後醍醐天皇(1288~天1318~39)は、ふたたび倒幕の準備を始める。後醍醐のめざすところは、幕府を排した親政であり、公地公民の律令制への復古である。しかるに、兼好は、名目上は世を離れた出家者とはいえ、実情は私有地、荘園の売買仲介で生活し、その拠って立つ人脈も、幕府側の北条金沢家を中心としており、その当主、金沢貞顕も幕府で失脚したとなると、もはや後ろ盾の無い危うい身の上だった。

 もっとも、内大臣堀川家と金沢家との縁(堀川の未亡人が貞顕の子の仁和寺真乗院院主と同棲)で、兼好も堀川家に出入りし、また、堀川具親が後醍醐に仕えていたこともあって、大覚寺統に付く和歌の二条家に近づき、その弟子の「四天王」のひとりとして、庶民への和歌の普及に努めてたりもしていた。しかし、貞顕の子、金沢貞将(さだゆき、1302~六南24~30~33)が先の正中の変で後醍醐のクーデタを叩き潰し、また、和歌の二条家も勢いを失っていったために、後醍醐の情勢のうわさを耳にすることができても、もはや身を守るにたるほどのツテではなかった。

 このころ、兼好は四十代半ば。この1326年4月より後、彼はひそかに『徒然草』の断章をおりおり書き貯め始める。しかし、30年、金沢貞将が六波羅別当を解かれ、関東に戻るころ、兼好は筆を折り、以後、約百年、その草稿の存在は人目から封じられてしまう。この数年間の『徒然草』執筆の動機は何だったのか。また、執筆まで彼は何をしていたのか。

Ads by Google

この記事が気に入ったらいいね!しよう
INSIGHT NOW!の最新記事をお届けします

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

フォロー フォローして純丘曜彰 教授博士の新着記事を受け取る

一歩先を行く最新ビジネス記事を受け取る

ログイン

この機能をご利用いただくにはログインが必要です。

ご登録いただいたメールアドレス、パスワードを入力してログインしてください。

パスワードをお忘れの方

フェイスブックのアカウントでもログインできます。

INSIGHT NOW!のご利用規約プライバシーポリシーーが適用されます。
INSIGHT NOW!が無断でタイムラインに投稿することはありません。