中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(前編)

画像: シャルルマーニュの使者を迎えるアッラシード

2022.01.14

ライフ・ソーシャル

中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(前編)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/

そんな原始回帰みたいな西欧ですが、農業だけは発展を遂げたんです。ゲルマン人は以前、パサパサした大麦の粥を主食としていましたが、旧ローマ領内にはローマ人の小麦畑が残されており、修道院は水車臼も備えていた。それで、彼らはグルテンの多い小麦で作ったパン食へシフト。大麦は、もうブタの餌。耕作に馬と車輪付きの鋤を使い、春蒔き大麦畑、秋蒔き小麦畑、そして休耕地を交代させる三圃制で地味を維持、さらに、ブタを大麦や森のどんぐりで肥育。そのうえ、これが中世温暖期と重なる。八世紀になるころから、世界的に気候が好転。かくして、食糧事情は劇的に向上、人口も増え続けた。

J おや、学芸はともかく、生活は、それほど暗黒でもなかったようですね。

逆に、イスラム世界では、中世温暖期のせいで砂漠での生活がきつくなったようですよ。再統一を果たしたアブトゥルマリクの息子、ウマイヤ朝カリフ六代目ワリード一世(674~位705~15)は、アラブ帝国としての基盤の上で、砂漠の外への広大な征服戦争を繰り広げます。東は、中央アジア、パキスタンへ、西は、北アフリカのヴァンダル王国跡を走り抜け、北上して、711年、ゲルマン人西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を征服。さらにピレネー山脈を越えて、内輪揉めを続けるゲルマン人フランク王国南部へ。これらの地において、彼は、既存のゾロアスター教やキリスト教の教会堂をイスラム教礼拝堂(モスク)に変え、学校や病院を整え、内政も充実させます。

しかし、715年、彼は42歳で病死。その弟が地位を奪うも、わずか二年でやはり病死。そして、717年、この兄弟の甥のウマル二世(682~位717~720)が第八代カリフに即位。このころになると、アラブ人以外でもイスラム教に改宗する者が増え、ウマル二世もまた、人間平等を唱う本来のイスラム精神に則り、積極的にアラブ人以外の異教徒原住民にも改宗を勧めました。でも、このことは異教徒庇護税(ジズヤ)の減少を意味し、ウマル二世は37歳で毒殺され、結局、異民族は改宗しても庇護税の賦課は続いて、かえって不満を高めてしまいます。

J 砂漠以外のところでは、中世温暖期の恩恵で、西欧と同様、食糧が増え、人口も増えていたんでしょうね。でも、それを少数のアラブ人で支配するなんていうのは、もうムリだったんだろうな。

でも、こんなふうに移住ゲルマン人たちを使って開拓する修道院が、耕地のほとんどを荘園私領としてまったために、帝国には税収が入らず、それでいて国土防衛だけ負担させられている状態に。それで、ウマル二世のイスラム精神高揚の影響もあったのか、東ローマ帝国でも、726年、皇帝が聖像禁止令を出し、イコノクラスム(聖像破壊運動)が起こします。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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