中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

画像: 神聖ローマ皇帝オットー一世の使節を受け入れるコルドバ市ザフラー宮殿のアブド・アッラフマーン三世

2022.01.21

ライフ・ソーシャル

中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/

13.2.1. アッバース帝国の衰退(九世紀後半)

このころ、バビロニアのバグダッド市を中心として東西に広がりすぎたアッバース帝国は統率を失いつつありました。とくに先の第七代カリフ、マアムーンが取り込もうとしたアラビアのシーア派は大きな問題で、アッバース朝は、848年、シーア派の第十代イマームとその息子を首都バグダッド市の近くに軟禁し、支持者たちとの接触を断ち切り、874年には息子の第十一代イマームも27歳で毒殺。ところが、シーア派は、彼と東ローマ帝国皇女との間に第十二代イマームが生まれたが、神に隠され、いずれ戻る、と信じるようになり、それまでの間、知識人(ウラマー)が代理を務めることになります。これをシーア・十二イマーム派と言います。

J なんだ、知識人が管理するんじゃ、スンニ派と大差ないじゃないですか。

いや、スンニ派の知識人、ムウタズィラ派は、神はつねに公正だ、として、アッバース帝国が支配する現状を肯定的にとらえるのに対して、シーア・十二イマーム派の知識人は、第十二代イマームが隠されたのは、神が現状に納得していないからで、我々はこれを変えるべきだ、と考えています。

さらに先鋭的なのがシーア・イスマーイール派で、彼らは、そもそもイマーム継承は、親より先に死んだ第七代イスマーイールで終わっていた、とし、神は改めて、アダム・ノア・アブラハム・モーゼ・イエス・ムハンマドに次ぐ七人目の預言者(マフディー)を送ってくれるから、それまでスンニ派はもちろんシーア派主流の十二イマーム派も信用せず、みずからの信仰を隠し、ひそかに伝道し、また、武装してその日に備えよ、とします。

J イマーム再来どころか、第七の預言者ですか。スケールがでかいなぁ。

一方、東でも、861年にはアフガニスタンでサッファール朝が、873年には中央アジアでサーマーン朝が独立。ターヒル朝は滅ぼされ、アッバース帝国はイラン高原東半を失ってしまいます。そして、残るイラン高原西半でも、外形的な生活法(シャリーア)に対する反発が生じ、インド文化の影響を強く受けて、禁欲主義からさらに内面性にのめりこむスーフィズムが流行。

西のアラビアのシーア派が法源をムハンマド後継者のイマームに求めて原点回帰を訴えたのとは別の意味で、東のイランのスーフィズムもまた原点回帰主義的でした。彼らは、真の法源は、歴史を越えたムハンマドと同じ神秘体験である、として、特異な修行や呼吸で忘我法悦の境地に至ることを求めました。イランのバスターミー(?~c874)は、この過程を自我の層をはぎとっていくものとし、究極的には神そのものに至る、と考え、陶酔(スクル)スーフィズムの祖となります。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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