試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

2021.08.20

開発秘話

試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、などと言う。しかし、地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。/

テュルク語族の弓騎馬革命(前十世紀ころ)

ヒュペルボレイオス人は、移動や狩猟のために、雪の上でも歩ける偶蹄目のトナカイに騎乗していた。そのオスの角は、繁殖期に戦うために春に生えて秋に落ち、そのメスの角は、子育ての栄養となるエサを雪の中から掘り出すため、秋に生えて春に落ちる。つまり、年中、どちらかに角がある。この角がなぜ重要か、というと、馬具無しに角をハンドルにしてトナカイの向きを変えられるから。

頭の向きを変えれば、走る方向を変えられる。この習性を、テュルク語族は馬に応用した。馬の口は、草をちぎる前歯と、それをかみつぶす奥歯の間に大きな隙間があり、ここに青銅器のハミを噛ませて、その左右に手綱を付けることで、馬の頭の向きを変えられるようにした。そして、これにさらに鏡板をつけ、アゴを支点とすることで、馬の頭蓋骨全体を大きく操作できるように。さらには、頭だけでなく、首から向きを変えるように、乗馬位置を、操作の支点となる首のつけねの近く、馬の肩甲骨のすぐ後に鞍(軟式、アブミはまだ無い)を乗せた。

これとともに、弓にも大きな改良が加えられた。それまで矢を遠くに飛ばすには、より大きな弓が必要だったが、木材に骨材などを貼り合わせ、また、W型に上下を逆に反り返らせることで、矢先を支えながらより大きく引ける、短く強い複合弓を発明した。これは、騎乗でも扱いやすく、これによって、敦煌のアリマスピア人は勢力を拡大してユーラシアハイウエイ東半を握り、北西のイッセドネス人を西へ追いやった。

アリマスピア人の騎馬はまた、カザフステップの草原の道を回らず、西域を抜け、パミール山地の峻厳な谷筋道を越えて中央アジアに最短直行する天山南路を可能にし、西側のバクトリアの印欧語族マッサゲティア人(インドに行かなかったアーリア人)を圧迫した。同じころ、鋼鉄製造法を手に入れたセム語族の新アッシリアは、前934年、鋼鉄製の武器と戦車で、近隣諸民族を征服再編し、中東に帝国を築く。

このため、バクトリアの残留アーリア人(マッサゲティア人)の一部は、イラン高原を渡り、銅や錫、鉄や石炭の取れる東部ザグレブ山脈西北部に住み着いてメディア人となり、また、インドから出戻った侵入アーリア人も、シスタン盆地(アフガニスタン南西部)からイラン高原を渡って、同山脈東南部住み着いてペルシア人となった。また、ハットゥシャが滅びた後のアナトリアには、黒海西岸トラキア側から新たに印欧語族フリギュア人が入り込んだ。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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