『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(2)

2021.09.09

ライフ・ソーシャル

『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/

第四十一段に、木の上で競馬見物をしながら、うたた寝する法師の話がある。これを笑う人々に、兼好は、死が目前にありながら見物などしている我々も似たようなもの、と言ったところ、人々は深く感心してくれた、と言う。これに兼好は、「人、木石にあらねば、時にとりて、ものに感ずることなきにあらず」と付している。この最後の一文は、世間の人々も、木や石ではないのだから、近く京で戦乱が起こり、それに巻き込まれて死ぬかもしれぬことをすでに察している、ということだろう。

ここにおいて、彼の無行仏道において、『徒然草』であらためて『摩訶止観』の息諸縁務を採り上げた(75)のも、たんに面倒を嫌い、逸楽を求める以上の意味合いを帯びてくる。二十代後半の出家においては、後の寺籍獲得に役に立つかどうかで諸縁務を選んだ。だが、本覚思想が現世一体全肯定とすれば、この時期の兼好は、むしろ死の側に身を置き、そこから現世をまるごと否定する。禅宗に見える雪峰のごとく、米も、砂も、すべて棄てる。というのも、縁があったがゆえに兼好が禍に引き込まれる、というだけでなく、兼好との縁が、これから起こるだろう禍に人々や物事を巻き込むことになるからだ。


その後の兼好

果たして、1331年、倒幕計画はこんども幕府に漏れてしまい、後醍醐は慌てて京を脱し、笠置(かさぎ)山へ逃れるも、落城し、隠岐へ流される。しかし、延暦寺や河内、播磨で地元武装集団が暴れ、後醍醐も島を出て挙兵。その討伐に向かったはずの足利尊氏が京都で六波羅探題を落とし、また、河内で楠木正成と戦っていた新田義貞が関東に戻って 北条氏や金沢家を滅ぼす。

こうして、1333年、後醍醐の建武の新政が成るが、公地公民に勅許特例の私有を認める「個別安堵法」のせいで請願や訴訟が殺到し、混乱を極め、政務は停滞。倒幕に功績のあった武将たちに恩賞も出ない。これに呆れ、足利尊氏は、光明天皇を擁立して、室町幕府を開く。

このように、後醍醐の新政は、思ったようには進まず、兼好のような旧幕府内通者に対する追求追討もうやむやになった。この間、兼好は洛外に身を隠して、古典校訂書写などをして日を過ごし、やがて歌人としてまたあちこちに顔を出すようになって、名士として八十近くまで生きた。だが、この晩年にも、彼が本気で仏道に励んだようすなど、結局、無い。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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