制度で人を守らなければならない社会へ  --カスハラ義務化の奥にある「人を人として見られない時代」

2026.07.14

組織・人材

制度で人を守らなければならない社会へ  --カスハラ義務化の奥にある「人を人として見られない時代」

齋藤 秀樹
株式会社アクションラーニングソリューションズ 代表取締役 一般社団法人日本チームビルディング協会 代表理事

カスタマーハラスメント、いわゆるカスハラへの対策が、企業に義務づけられる時代になった。 政府広報オンラインは、2025年6月の法改正を受け、2026年10月1日から企業等にカスハラ防止のための雇用管理上の措置が義務づけられると説明している。 もちろん、これは必要な制度である。 理不尽な暴言、威圧、長時間拘束、人格否定、過剰な要求。 そうしたものから働く人を守るために、企業が責任を持つことは当然である。 現場に我慢を押しつけてきた社会を変えるためにも、制度化は避けて通れない。 しかし、この制度化を「社会の前進」とだけ見てよいのだろうか。

カスタマーハラスメント、いわゆるカスハラへの対策が、企業に義務づけられる時代になった。

政府広報オンラインは、2025年6月の法改正を受け、2026年10月1日から企業等にカスハラ防止のための雇用管理上の措置が義務づけられると説明している。

もちろん、これは必要な制度である。

理不尽な暴言、威圧、長時間拘束、人格否定、過剰な要求。
そうしたものから働く人を守るために、企業が責任を持つことは当然である。
現場に我慢を押しつけてきた社会を変えるためにも、制度化は避けて通れない。

しかし、この制度化を「社会の前進」とだけ見てよいのだろうか。

制度化は、必要な一歩である。
だが、それは治癒ではない。
止血である。

血が流れているから、止血が必要になる。
働く人が傷ついているから、制度で守らなければならなくなった。
本当に問うべきは、制度の中身だけではない。

なぜ、人が人を傷つける前に立ち止まれなくなったのか。
なぜ、相手を一人の人間として見る力がここまで弱くなったのか。
なぜ、本来は暮らしや職場や地域の関係性の中で保たれていたはずの節度を、法律や制度で補わなければならなくなったのか。

ここに、いまの社会の本質がある。

カスハラは、単なる迷惑客の問題ではない

カスハラを「一部の非常識な客の問題」として片づけると、本質を見誤る。

厚生労働省の2023年度「職場のハラスメントに関する実態調査」では、過去3年間に「顧客等からの著しい迷惑行為」に該当すると判断した事例があった企業は86.8%にのぼった。相談があった企業も27.9%で、業種別では「医療、福祉」が53.9%、「宿泊業、飲食サービス業」が46.4%、「卸売業、小売業」が40.6%だった。

これは、決して一部の特殊な現場の話ではない。

さらに、事例の内容を見ると生々しい。

「継続的・執拗な言動」が72.1%。
「威圧的な言動」が52.2%。
「精神的な攻撃」が44.7%。
そして被害内容では、「通常業務の遂行への悪影響」が63.4%、「労働者の意欲・エンゲージメントの低下」が61.3%にのぼっている。

つまり、カスハラは単なる不快な出来事ではない。
働く人の尊厳を削り、意欲を奪い、現場の空気を壊し、組織の生産性まで蝕んでいる。

しかも、同調査では、迷惑行為を受けた労働者のうち「何もしなかった」人が3割を超え、その理由として「何をしても解決にならないと思ったから」が5割以上にのぼったと報告されている。

これは深刻である。

人が傷ついている。
しかし声を上げない。
なぜなら、声を上げても変わらないと思っているからである。

制度化は、この現実への対応である。
しかし、制度化だけでこの社会は治らない。

なぜなら、問題の根は、カスハラという行為の手前にあるからだ。

相手を「人」ではなく「機能」として見るようになった

相手を一人の人間として見る力は、なぜ弱くなったのか。

第一の理由は、人と人の関係が「役割」と「機能」に置き換わったことである。

かつて、相手には顔があった。

近所の人。
なじみの店の人。
先生。
先輩。
親戚。
地域の人。
いつも世話になっている人。
また明日も顔を合わせる人。

そこには背景があった。
継続した関係があった。
自分の言葉が、次の関係に残るという感覚があった。

しかし、いま私たちは、多くの相手を役割名で見る。

店員。
窓口。
コールセンター。
配達員。
担当者。
上司。
部下。
顧客。
業者。

もちろん、社会には役割がある。
仕事には責任がある。
サービスには品質が求められる。
顧客にも、働く人にも、守られるべき権利がある。

しかし、役割の奥には必ず人間がいる。

感情がある。
事情がある。
限界がある。
生活がある。
家族がある。
その人なりの人生がある。

その当たり前が見えなくなったとき、人は相手を「対応する機能」として扱い始める。

謝罪する機能。
処理する機能。
成果を出す機能。
不満を受け止める機能。
こちらの要求を満たす機能。

ここで、人間が見えなくなる。

カスハラとは、相手を「人」ではなく「処理機能」として見たときに起こる。
相手の顔が消え、背景が消え、人生が消える。
残るのは、自分の不快と、それを処理すべき相手だけである。

これは顧客だけの問題ではない。

会社が社員を、クレームを収める機能として扱う。
上司が部下を、成果を出す機能として扱う。
部下が上司を、自分を守る機能として扱う。
顧客を、売上を持ってくる機能として扱う。
教育が子どもを、点数や進学実績を出す存在として扱う。

相手を人として見ない社会では、誰もが誰かの機能になる。
そして、自分自身もまた、誰かにとっての機能になっていく。

便利さが、人間を成熟させる稽古場を奪った

第二の理由は、便利な社会が「待つ・譲る・察する」経験を減らしたことである。

便利さは悪ではない。
不便を減らすことは、人間の知恵である。
苦痛を減らすことも、社会の進歩である。

しかし、便利さは人間を必ず成熟させるわけではない。

すぐ届く。
すぐ返事が来る。
すぐ検索できる。
すぐ予約できる。
すぐ不満を投稿できる。
すぐ代替品が見つかる。

この環境では、思い通りにならない現実に向き合う力が育ちにくくなる。

人は本来、すぐに満たされない経験の中で成熟する。

待つ。
譲る。
我慢する。
相手の都合を考える。
自分の怒りを一度抱える。
言い方を選ぶ。
壊れた関係を修復する。

こうした経験は、面倒である。
時に不快である。
しかし、人間を成熟させる稽古場でもあった。

ところが、社会が便利になるほど、この稽古場が減っていく。
待たなくてよい社会は、待つ力を弱める。
すぐに代替できる社会は、関係を修復する力を弱める。
不快をすぐ吐き出せる社会は、自分の怒りを抱える力を弱める。
相手と顔を合わせずに処理できる社会は、相手の事情を想像する力を弱める。

その結果、人は自分の不快を自分で扱う前に、誰かに処理させようとする。

「なぜ待たされるのか」
「なぜ自分の思い通りにならないのか」
「なぜすぐ謝らないのか」
「なぜこちらの不満を受け止めないのか」

こうして、便利さに慣れた人間は、満たされない自分を扱う力を失っていく。

資本主義が「満たされる側の感覚」を肥大化させた

第三の理由は、資本主義が「欲求を満たされる側の感覚」を肥大化させたことである。

現代の市場は、人間の成熟よりも、欲求の刺激に向かいやすい。

もっと早く。
もっと安く。
もっと便利に。
もっと自分好みに。
もっと不快なく。
もっと損をしないように。
もっと比較しやすく。
もっと選びやすく。

市場は、人間の欲求に応える。
しかし同時に、人間の欲求を膨らませる。

その中で、人は少しずつ、自分は「満たされる側」であるという感覚を強めていく。

お金を払っている。
選ぶ側である。
評価する側である。
文句を言う権利がある。
不満があれば相手が改善すべきである。

もちろん、消費者の権利は大切である。
不良品に声を上げることも、理不尽な対応に異議を唱えることも、当然必要である。

しかし、権利の感覚だけが強まり、相手も一人の人間であるという感覚が弱まると、要求は簡単に暴力化する。

「私は客だ」
「お金を払っている」
「こちらが選ぶ側だ」
「嫌なら他に行く」
「評価を下げるぞ」
「SNSに書くぞ」

この瞬間、人は対話しているのではない。
力を振りかざしている。

資本主義は、欲求を刺激する。
便利な社会は、欲求を満たす。
しかし、その欲求をどう扱うかまでは教えてくれない。

ここに、現代の大きな落とし穴がある。

私たちは、人を人として見る稽古をしないまま、人に何かを求めることだけが上手くなってしまった。

共同体が弱まり、長く関わる関係が減った

第四の理由は、共同体が弱まり、長く関わる関係が減ったことである。

人は、継続した関係の中では乱暴になりにくい。
相手を傷つければ、その後の関係にも影響するからである。

また顔を合わせる。
また話す。
また世話になる。
自分の振る舞いが、地域や職場や家庭の空気に残る。

この継続性が、人間の振る舞いに節度を生む。

しかし、匿名性が高く、一回限りの関係が増えると、相手への想像力は弱まりやすい。

ネット上の相手。
一度しか会わない店員。
名前も顔も覚えないコールセンターの人。
画面越しの誰か。
二度と会わない配達員。
レビュー欄の向こう側にいる企業担当者。

そこでは、自分の言葉が相手の心にどう残るのかが見えにくい。

孤独や孤立は、単なる個人の寂しさの問題ではない。
内閣府の令和6年「人々のつながりに関する基礎調査」では、孤独感が「しばしばある・常にある」「時々ある」「たまにある」と答えた人が合計39.3%と示されている。

世界的にも、OECDは2025年の報告で、社会的つながりは健康、雇用、教育、市民参加などに広く影響するとし、孤独や社会的孤立が早期死亡や心身の健康問題と関連すると指摘している。また、22の欧州OECD諸国では8%が親しい友人を持たず、23のOECD諸国では6%が過去4週間にほとんど、または常に孤独を感じていたと報告されている。

つまり、これは日本だけの問題ではない。
人と人のつながりの劣化は、世界的な課題である。

ただ、日本では本来、暮らしの中に「お互い様」「慮る」「場を乱さない」という感覚があった。
それが弱まった分、関係性の劣化は、より深い喪失として現れている。

教育が「正解処理」に寄り、人間を見る力を育てにくくなった

第五の理由は、教育が「正解処理」に寄り、人間を見る力を育てにくくなったことである。

学校教育も、社会教育も、長く「できる人」を育ててきた。

点数を取れる。
正解を出せる。
指示通りに動ける。
競争に勝てる。
効率よく処理できる。
失敗しない。
空気を読んで、余計なことをしない。

もちろん、知識も能力も必要である。
基礎学力も必要である。
社会で働く以上、処理能力も重要である。

しかし、人間を見る力は、正解処理だけでは育たない。

相手の立場に立つ。
自分の感情を言葉にする。
違う意見と向き合う。
場への影響を考える。
自分の正しさを一度疑う。
誰かと関係を修復する。
自分の力を何のために使うかを考える。

こうした学びが弱いまま社会に出ると、能力は高くても、人間関係の中で成熟できない人が増える。

仕事はできる。
資料は作れる。
数字は読める。
指示されたことはこなせる。
しかし、相手の不安には気づけない。
自分の言葉が場に何を残すかは見えない。
自分の正しさで、相手を追い詰めていることに気づけない。
自分の成果の裏で、誰かの尊厳が削られていることに無自覚である。

それは本当の意味で「できる人」なのか。

人を人として見る力を育てないまま、処理能力だけを高める。
その先に生まれるのは、成熟した人間ではない。
高機能な作業者である。

そして、高機能な作業者だけが増えた社会では、人は簡単に機能として扱われる。

制度や仕組みに頼りすぎ、人間同士で整える力が弱くなった

第六の理由は、制度や仕組みに頼りすぎ、人間同士で整える力が弱くなったことである。

問題が起きると、社会は制度をつくる。

カスハラ対策。
パワハラ研修。
相談窓口。
通報制度。
マニュアル。
評価制度。
コンプライアンス。
記録。
証拠。
チェックリスト。

これらは必要である。
被害者を守るために、制度は必要である。
声を上げられない人を守るために、仕組みは必要である。
理不尽を放置しないために、ルールは必要である。

しかし、制度は被害を抑えることはできても、相手を一人の人間として見る力そのものは育てられない。

制度は、境界線を引く。
制度は、責任を明確にする。
制度は、被害を抑える。
制度は、最低限の安全を守る。

だが制度は、人を傷つける前に立ち止まる心までは育てられない。
制度は、相手にも事情があると想像する力までは育てられない。
制度は、お互い様の感覚を呼び戻すことはできない。
制度は、人と人が信頼を積み重ねる場を自動的にはつくれない。

制度化は止血である。
治癒ではない。

制度が増えていることは、社会が成熟している証であると同時に、制度で補わなければならないほど、人間同士で節度を保つ力が弱くなっている証でもある。

だから、制度化をもって解決と考えるなら、私たちはまた同じ過ちを繰り返す。

カスハラにはカスハラ対策。
孤立には相談窓口。
離職にはエンゲージメント調査。
不祥事にはコンプライアンス研修。
組織不信には制度改定。

対症療法は増える。
しかし、人間は成熟しない。

それが、いまの社会の怖さである。

「恥」と「慮り」が、古いものとして捨てられた

第七の理由は、日本的な「恥」と「慮り」が、古いものとして捨てられたことである。

ここは、丁寧に扱わなければならない。

「恥」「慮り」「お互い様」「場を乱さない」「分をわきまえる」。
こうした感覚は、悪く働けば同調圧力になる。
我慢の強制になる。
言いたいことを言えない空気になる。
上下関係の温存にもなる。

だから、無批判に昔へ戻ればよいわけではない。
過去を美化しても意味はない。

しかし、その本質まで捨ててしまってよいのだろうか。

本来の恥とは、人目を気にして萎縮することではない。
自分の振る舞いが、人として美しいかを内側で問う感覚である。

本来の慮りとは、自分を殺すことではない。
相手にも事情があると想像する力である。

本来のお互い様とは、我慢の強制ではない。
自分も相手も不完全な存在として支え合う知恵である。

本来の「場を乱さない」とは、沈黙して従うことではない。
自分の言葉や態度が、そこにいる人たちに何を残すかを考えることである。

こうした感覚が、古い道徳として退けられ、現代の言葉で継承されなかった。
その結果、私たちの暮らしの奥にあった人間観が、若い世代に届きにくくなっている。

もちろん、時代は変わった。
多様性も必要である。
個人の自由も尊重されなければならない。
理不尽な同調圧力は壊さなければならない。

しかし、自由とは、自分の欲求をそのまま他者にぶつけることではない。
多様性とは、相手を理解しなくてよいという免罪符ではない。
権利とは、相手の尊厳を無視してよいという許可証ではない。

ここを履き違えた社会は、自由な社会ではない。
欲求がむき出しになった社会である。

人間を成熟させる関係性の場が減った

ここまで見れば、相手を一人の人間として見る力が低下した理由は明らかである。

人間を成熟させる関係性の場が減った。
代わりに、欲求をすぐ満たす仕組みが増えた。
問題を処理する制度が増えた。
相手を役割で見る関係が増えた。
匿名で、一回限りで、背景の見えない関係が増えた。
教育は、正解処理に偏った。
市場は、欲求を刺激し続けた。
そして、かつて暮らしの中にあった節度や慮りの感覚は、古いものとして十分に継承されなかった。

その結果、私たちは、人を人として見る稽古をしないまま、人に何かを求めることだけが上手くなってしまった。

これが核心である。

カスハラは、その一つの現象である。
孤立も、分断も、職場不信も、管理職の疲弊も、若手の離職も、同じ根を持っている。

人を人として見ない。
相手を機能として見る。
自分の欲求を処理させる。
制度で止血する。
しかし、人間は成熟しない。

この循環が、現代社会の奥で進んでいる。

成熟した社会とは、何でも満たされる社会ではない

成熟した社会とは、何でもすぐに満たされる社会ではない。
不満がすぐに処理される社会でもない。
困ったときに窓口があるだけの社会でもない。

成熟した社会とは、人が人として扱われる社会である。

相手にも事情があると想像できる。
自分の怒りをそのままぶつけない。
言い方を選ぶ。
相手の限界を考える。
自分の権利と相手の尊厳を同時に見る。
違いがあっても、いきなり敵にしない。
不満があっても、相手を壊さない。

これは、きれいごとではない。
これからの社会を保つための基礎体力である。

多様化が進めば、価値観の違いは増える。
グローバル化が進めば、異なる文化背景を持つ人との接点も増える。
テクノロジーが進めば、人と直接向き合わなくても処理できる場面は増える。
資本主義が進めば、人間の欲求はさらに刺激される。

だからこそ、相手を一人の人間として見る力が必要になる。

それは、同じ価値観になることではない。
相手に合わせて自分を消すことでもない。
何でも我慢することでもない。

違いがあっても、相手を人間として扱うこと。
境界線を持ちながら、尊厳を失わないこと。
自分の欲求を持ちながら、それを誰かに暴力的に押しつけないこと。

この力がなければ、社会は高機能になっても、低信頼になる。

小さな場から、人間を見る力を育て直す

この流れは、簡単には止まらない。

社会はこれからも便利になる。
サービスはさらに洗練される。
AIはさらに進化する。
市場は欲求を刺激し続ける。
制度も増えていくだろう。

だからこそ、私たちは大きな社会を嘆くだけではなく、自分が関わる小さな場を見直す必要がある。

家庭。
職場。
学校。
地域。
チーム。
会議。
顧客接点。
部下との面談。
上司への相談。
仲間との対話。

その小さな場で、私たちは相手を一人の人間として見ているだろうか。

相手を成果を出す機能として扱っていないか。
相手を不満を処理する機能として扱っていないか。
相手を自分を守る機能として扱っていないか。
相手の背景を聞く前に、役割だけで判断していないか。
制度や仕組みに逃げて、向き合うべき対話を避けていないか。

人間は、関係性の中で成熟する。

だから、成熟したリーダーが必要である。
そして同時に、成熟したフォロワーも必要である。

リーダーは、人が人として扱われる場をつくる。
フォロワーは、その場の一員として、自分の言葉や態度が相手に何を残すかを考える。
経営者は、人を機能として扱わない組織の掟を持つ。
一人ひとりは、自分の欲求だけでなく、相手と場全体を見る。

社会を変えるとは、遠いどこかの制度だけを変えることではない。
自分が関わる小さな場で、人間を人間として扱い直すことでもある。

いま問われているもの

カスハラ対策の義務化は、働く人を守るために必要な一歩である。
しかし、それだけで終わらせてはならない。

これは、私たちの社会が失いつつあるものを映す鏡である。

人を人として見る力。
相手にも事情があると想像する力。
自分の欲求をそのままぶつけない力。
場を壊さずに言葉を選ぶ力。
人と人との関係の中で、自分を少しずつ成熟させる力。

私たちは、それをどこで失ってきたのか。
そして、どこから育て直すのか。

便利な社会は、人間の欲求を満たしてくれる。
しかし、人間を成熟させてくれるとは限らない。

制度は、人を守ってくれる。
しかし、人を人として見る心までは育ててくれない。

だからこそ、いま必要なのは、制度の整備だけではない。
人間を見る力を、もう一度、暮らしと組織と教育の中に取り戻すことである。

それは、昔に戻ることではない。
過去を美化することでもない。
現代の言葉で、現代の場に、人が人と生きるための知恵を実装し直すことである。

カスハラは、その入口にすぎない。

本当に問われているのは、私たちがこれからどのような人間として、どのような社会をつくるのかである。

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齋藤 秀樹

株式会社アクションラーニングソリューションズ 代表取締役 一般社団法人日本チームビルディング協会 代表理事

富士通、SIベンダー等において人事・人材開発部門の担当および人材開発部門責任者、事業会社の経営企画部門、KPMGコンサルティングの人事コンサルタントを経て、人材/組織開発コンサルタント。

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