『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(2)

2021.09.09

ライフ・ソーシャル

『徒然草』の執筆背景:脱サラとFIREの先駆者(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/当時、私度僧でも功績によって僧官になる道があり、兼好もまた二十代後半で出家して寄進斡旋や和歌名声でこの道をもくろむも、すでに僧籍は寄進貴族の子女に占められており、兼好は形ばかりの仏道に甘んじる無行で開き直る。しかし、四十代後半、倒幕による命の危機を感じるに至って、わずか数年で『徒然草』を書き上げる。/

ここにおいて、北条金沢氏は、称名寺とともに、1306年と07年、寺社造営料唐船で日元貿易を始めている。このころすでに金沢貞顕は六波羅探題別当として京におり、兼好が六浦称名寺との書状のやりとりを仲介している。『摩訶止観』がその後の南宋禅でも古典されていた以上、鎌倉を行き来した兼好は、天台宗延暦寺を通さずとも、中国僧のいる建長寺などで、もしくは、直接に日元貿易で、『摩訶止観』を手にして京に持ち帰ることができたのではないか。また、先に兼好が山川草木や居宅造作に深い関心を持ち、寄進仲介で重源などのように造堂造園の付加価値をつけていた可能性を論じたが、これも本覚思想の「草木国土、悉皆成仏」に基づくのではなく、むしろ夢窓疎石のような禅宗文化の体験に発するのではないか。


再出家のための『徒然草』

先に、鎌倉新仏教の指導者たちが、身分保証された官僧だったにもかかわらず、実情と行末に失望し、延暦寺を脱したことを「二重出家」と呼んだ。ぼろぼろや門付、売僧もまた、最初は念仏普及や浄財集めで功績を挙げて寺籍を得ることを望んで、私度僧としていずれかの寺院に身を寄せたのだろうが、その後の現実の苦闘の中で私度僧くずれに成り果てたのだろう。兼好においても、二十代後半の社会身分的な意味での「出家」と、四十代後半の『徒然草』執筆時の後悔決意とは、二つに分けて考えるべきではないか。この二つが混同されていることが、兼好をわかりにくくしているのではないか。

法皇に見られるように、当時、「出家」は、親族や身上のしがらみを断ち切るというのみで、実際は、俗世を離れて仏道に励むどころか、むしろ俗世の直中に留まり、僧籍の権威縁故をかさに着て、これまで以上に好き勝手の仕放題というありさま。兼好の場合も、登り調子の探題別当金沢貞顕に仕え、自分も正規に侍品(さむらいほん)に叙せられたとはいえ、硬直した権威縁故社会の鎌倉末期にあっては、そこで先が見えてしまった。「なにの興ありてか、朝夕、君に仕へ、家を顧みる営みのいさましからん。」(58)(なにがおもしろくて、毎日、君に仕え、家を整える気になどなろうか。)とは、このころの若者らしい心情を思い出してのものだろう。

しかるに、兼好は、私度僧として身分職責を勝手に捨てて「出家」したものの、先述のように、仏道らしい務めもせず、むしろ金沢家や堀川家、二条家などの名門に出入りして縁故を深め、寄進の斡旋や和歌の名声という功績によって正規の僧籍を得ようと奮闘すること、二十年。だが、すでに本覚思想のせいか、聖界もまた俗世同様、俗物貴族たちの支配するところとなっており、家柄の無い兼好の努力は実を結ぶことはなかった。それどころか、鎌倉倒幕と公地復古をめざす後醍醐の再起で、幕府につながる彼の縁故、荘園にかかわる彼の仕事も、かえって彼の命まで危うくするものと成り果てていた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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