絶望は死に至る病

2017.11.19

ライフ・ソーシャル

絶望は死に至る病

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/情報過多の現代、我々はその時々の刺激に脊髄反射して、自分としての一貫性を欠いた、支離滅裂な自暴自棄に陥ってしまう。このため、現実から理想への希望が断絶した状態、すなわち、絶望となり、自分で自分を殺し潰すことになる。/

 客観的に見るなら、そこには選択統合し、事態を自分で工夫して切り抜けようとする首尾一貫した自分が無い。有限性の絶望状態は、あれこれ偉そうに言うだけで、自分ではなにもしない。逆に、無限性の絶望状態は、あれもこれも、なんにでも手を出して、なにがしたいのかさっぱりわからない。可能性への絶望状態は、できるとなると、とりあえずやってしまう。特売となるとなんでも買い、覗けるとなるとなんでも覗く。逆に、必然性の絶望状態は、なんの対策も採らず、なるに任せて、仕方ない、と放り出しっぱなし。本来であれば、自分に必要かどうかを考え、いらないものはいらない、やらなくていいことはやらない、やらないといけないことは、容易にできないとしてもなんとかできる方法を探るのが人間のはず。でも、こんな調子で自分が無いのでは、いつまでも同じところを堂々巡り。

 本人はどう思っているのだろう。主観的には、ひとつは、この現実が希望の実現につながっていない、ということに自覚が無い絶望的無知。もしくは、希望の実現につながっていないことを知りながら、どうにもできないと諦めてしまう絶望的弱気。さらには、つながっていないにしても、だれの世話にもならず、自分一人でなんとかできると思い込む絶望的強情。

 キルケゴールは、ほぼマルクスと同時代だが、みんなで団結して、などという共同体主義をまったく信じていなかった。キルケゴールが障害者で、さんざんに世間にイジメられてきたこともあるだろうが、彼に言わせれば、健常者だろうとなんだろうと、人間は、すべて一人一人、生まれも、育ちも、現実も、希望も違う。そんな違うものに、普遍的な万能の処方箋などあるわけがない。そして、自分で解決しないやつが、自分になれるわけがない。

 むしろ、自分自身の特異で個別の現実を直視する「単独者」として自覚することが、第一ステップ。現在地がわからないのに、目的地への道筋が立てられるわけがあるまい。良くも悪くも、まさにいま、このありさま。それを認識しないと、なにも始まらない。そしてまた、このままでいいや、と、ぬくぬく今の布団の中にくるまっているようなやつが、希望にたどり着くわけがない。ここじゃない、これじゃない、という自己否定があってこそ、自分の内面を探求し、ほんとうに自分がめざすべき希望を内的弁証法、いわゆる自己分析で見出すことができる。

 とはいえ、耽美的実存、かっこいいと思うから、というのは、ほんとうの希望ではない。なにがかっこいいかなんて流動的で、気が変わったら、すぐに変わってしまう。また、倫理的実存、それが正しいとされているから、というのも、自分の希望ではない。類型的で、それこそ自己喪失。それがかなっても、自分はうれしくもあるまい。そうではなく、信仰的実存、不動の神から見てのあるべき自己こそ、自分が希望すべきもの。こんな過去を生きてきた、こんな現実の自分に課せられた天命は何か、自問し自覚することが大切。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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