中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

画像: 神聖ローマ皇帝オットー一世の使節を受け入れるコルドバ市ザフラー宮殿のアブド・アッラフマーン三世

2022.01.21

ライフ・ソーシャル

中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/

J イスラム人やノルマン族などの侵略で、大移動以来のフランク族のヨーロッパ支配が揺らぎ始めた感じですね。

代わって、世俗化した領主教皇が勢力を拡大。ここで鍵となったのが、クリュニー修道院系領。これまで修道院は、地方領主がヨーロッパの森に植民開拓するための前線基地として機能してきました。まず僻地に修道院を建て、それを中心に村を作る。当然、その修道院も、その一帯も、私有領でした。これに対して、クリュニー修道院系領は、教皇直轄とされ、地方領主の要衝1200ヶ所をを虫食い状に奪取。また、その修道士二万名は、聖ベネディクト戒律に従って、個人財産を持たず、事実上の教皇の私兵として、どこへでも派遣され、大量の助修士、じつはただの農民を集めて、農耕はもちろん、ワインやビール、蜂蜜などの商品の生産で収益を上げた。

J 聖ベネディクト戒律って、529年にベネディクトゥスが作った、服従・清貧・純潔とかいうモンテカシノ系修道会の規則ですよね。でも、それって、「祈り働け」とか言いながら、実際は、ローマ的な贅沢三昧の俗物貴族主義にどっぷりだったんでしょ。クリュニー系は、なにか違ったんですか?

黒い服を着ていたのは同じ。農民たちを搾取して自分たちで働かず贅沢三昧に浸る俗物貴族主義も同じ。ただ、モンテカシノ系が地方領主の私有で、修道士でも司祭でもないその親族が院長になって支配していたのに対して、クリュニー系は、あくまで教会直属で、教皇が院長を指名。収益もすべてローマ教会が吸い上げた。

それと、やたらおどろおどろしく祈って、はったりめいた度派手な典礼と装飾、建築や音楽を発展させ、もうすぐ受難千年で、この世が終わるぞ、と脅した。これによって、無能な国王に見切りを付けた地方領主たちから膨大な寄進を受け、地方から逃亡した農民や新規に流入した移民を助修士ということにして囲い込んで、所領拡大を進めた。

J ああ、カロリング・ルネサンスとか、イスラム圏との交流交易とか、意外に中世も明るいなと思っていたけれど、このころからむしろいわゆる暗黒の中世に突っ込んでいくんですね。

アッバース帝国と同じく、イベリア半島の後ウマイヤ朝も群雄割拠。しかし、912年、若きアブド・アッラフマーン三世が(889~アミール912~カリフ29~61)が再征服に乗り出し、北部レオン王国などを除いて、統一を回復。首都コルドバ市に壮大なザフラー(花)宮殿を建てる一方、旧貴族を削減し、奴隷を登用。インフラ整備による経済振興で、驚異の繁栄に至ります。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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