中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

画像: 神聖ローマ皇帝オットー一世の使節を受け入れるコルドバ市ザフラー宮殿のアブド・アッラフマーン三世

2022.01.21

ライフ・ソーシャル

中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/

これに対して、若き皇帝オットー三世は、96年、ローマ市に進軍して、教皇を従軍司祭のグレゴリウス五世(c972~教皇96~99)に代えて戴冠。おりしも、フランス王国で同96年にユーグ・カペーが亡くなり、ロベール二世(972~王96~1031)が即位して、ブルグンド王国出でブロア伯の未亡人との結婚を企てます。その勢力拡大を嫌って、新婦がロベール二世のはとこに当たることを理由に、皇帝オットー三世は教皇グレゴリウス五世にフランス王ロベール二世を破門させます。クレシェンティウス二世ら反皇帝派貴族が反乱を起こしますが、皇帝オットー三世は、998年、サンタンジェロ城を襲撃して皆殺し。対立教皇は、目を潰し、鼻と耳を削いで修道院送りに。

J これが千年紀の終わりとは、なんとも血なまぐさい。でも、ドイツの皇帝とイタリアの教皇の問題は、まだまだ続きそう。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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