中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

画像: 神聖ローマ皇帝オットー一世の使節を受け入れるコルドバ市ザフラー宮殿のアブド・アッラフマーン三世

2022.01.21

ライフ・ソーシャル

中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/

これに怒った皇帝スポレート公ランベルトは、傀儡の新教皇を使って、97年、前教皇フォルモススの死体を掘り出して裁判にかけ、ローマ市のティヴェレ川に流し、アルヌルフの帝位を無効としました。 西フランク王ウードも898年に亡くなり、王位はカロリング朝のシャルル三世(879~王93~廃923~29)に返上。西ローマ皇帝ランベルトも、わずか十歳で死去。スポレート公国も、グイドの小姓だったアルベリーコ一世に乗っ取られてしまいました。そして、その妻となったのが、ローマ南東の貴族の娘で絶世の美女、マロツィア(c890~937)。

J うわ、なんかいかにも問題を起こしそうな女性が出てきましたね。


13.2.2. 次世代勢力の主導権争い(十世紀前半)

ローマ教会は、フランク族派(旧フォルモスス派)とイタリア派(スポレート公国派)に分かれて対立していましたが、マロツィアの愛人、イタリア派の教皇セルギウス三世は、904年、フランク族派の対立教皇を殺害し、事実上の世俗領主として君臨。一方、アッバース帝国でも、十世紀になると、地方軍人総督(アミール)たちが各地でいよいよ跋扈し、909年にはシーア・イスマーイール派伝統師のシリア人アブダッラー(873~934)が、北アフリカのベルベル人の軍隊を組織。チュニジアのアグラブ朝を滅ぼし、第七預言者(マフディー)を自称するウバイドゥッラーを本国シリアから招いて、ファーティマ朝を建て、アッバース朝に対抗する「カリフ(後継指導者)」とします。

J つまり、キリスト教でも、イスラム教でも、露骨に世俗支配する宗教国家が登場してきたわけですか。

西フランク王国も、異民族を前にしながら、無能なシャルル三世王は、諸侯をまとめられず、がたがた。ボルドー市を中心にイベリア半島や南仏に侵入してくるイスラム人と最前線で戦っていたアキテーヌ公は、国王に見切りをつけ、910年、リヨン市の北80キロにクリュニー修道院を建てて、その大所領を強引な世俗的教皇セルギウス三世に寄進。イングランドでも、アルフレッド大王の後を継いだエドワード長兄王(c874~王99~924)が、アングロサクソン族の統一王としてノルマン族防戦のために教皇との連係を強めます。一方、シャルル三世王は、同族略奪でノルマン族から追放されていたロロを味方につけ、王女を与えて、ノルマンディー公として領土を割譲。東フランク王国でも、フランク族カロリング朝の支配が断絶し、地元のフランケン大公がドイツ王国を建てる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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