中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

画像: 神聖ローマ皇帝オットー一世の使節を受け入れるコルドバ市ザフラー宮殿のアブド・アッラフマーン三世

2022.01.21

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中世の春:ヨーロッパとイスラム圏の奇妙な協調(後編)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/十字軍でいきなりカトリックがイスラム征伐に乗り出したわけではない。じつはむしろ、ムハンマド無くしてカール大帝無し、と言われるくらい、イスラム圏とヨーロッパは密接な関係、いや、それ以上の友好関係にあった。/

73年、オットー一世が死去し、二世が神聖ローマ帝位を継いだものの、いとこのバイエルン公が従わず、西フランク王とも対立。一方、ビザンティン皇帝ヨハネス一世は、死に体のアッバース帝国へ侵攻し、シリアを奪取して、イェルサレム市のすぐ目の前まで進撃したものの、76年、毒殺されてしまいました。代わって帝位についたマケドニア朝直系のバシレイオス二世(958~皇帝76~1025)は、キエフ公国を従え、以前にローマ皇帝を名乗っていたブルガリアの征服に乗り出し、ビザンティン帝国としての最盛期を築いていきます。また、北アフリカのシーア派ファーティマ朝も、内部に各地のスンニ派軍事総督(アミール)委任領を含む宗主帝国として拡大します。

J なんだか帝国だらけですね。でも、とりあえず版図を拡げて、隣接帝国と対抗してみたところで、抱え込んだ国々が素直に権威を認めるわけもなく、内憂外患の不安定さが増しただけかも。

でも、帝国になりそこねた西フランク王国なんか、ひどいものですよ。クリュニー系修道院領で虫食いにされ、神聖ローマ帝国が攻め込んできて、おまけに、かつて一時的に王位を担ったこともあるパリ伯家はカロリング朝を軽んじる。そして、987年に家系が断絶すると、パリ伯ユーグ・カペー(c940~伯56~王87~96)のカペー朝に取って代わられてしまいました。もっとも、この王朝は、しょせん一地方の伯爵上がりなので、ノルマンディー公やブルゴーニュ公をはじめとする他の大物地方領主たちは従わず、国がばらばらになっていってしまいます。

J 大移動以来のフランク族の支配も、とうとうこれで潰えたわけですね。

できたばかりの神聖ローマ帝国してもはなはだ脆弱で、28歳で病死した皇帝オットー二世を983年に継いだオットー三世(980~皇帝83~1002)は、まだ三歳。ビザンティン帝国出の母后テオファヌやブルグンド王国出の祖母后アーデルハイドに支えられて、どうにか維持。この隙に、ローマ市では、かつてスポレート公国下にあったサビーナ男爵クレシェンティウス家がサンタンジェロ城を拠点にして、枢機卿執事のボニファティウス七世を対立教皇として立てて、神聖ローマ帝国の支配に抵抗。

対立教皇ボニファティウス七世は、正統教皇を投獄して餓死させるなど、暴虐によってローマに君臨するも、85年に死去。しかし、こんどは彼を支援していたクレシェンティウス二世が、コンスタンティヌス帝やシャルル・マーニュ帝と同じ「ローマ父長(パトリキウス)」をかってに名乗って権力を掌握し、傀儡教皇を指名。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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