デール・カーネギー『道は開ける』をいま読む

2021.10.20

ライフ・ソーシャル

デール・カーネギー『道は開ける』をいま読む

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/戦中世代がPTSDによって戦前戦後の恐怖に精神的に強迫され続けたのとは方向が逆ではあるが、いまの我々もまた、戦後コロナ前の繁栄の期待に心を支配され続けている。コロナさえ収束すれば、あの賑わいと活気に溢れた「現代」の大衆社会が復活する、とかってに信じている。しかし、それももまた、一種の強迫観念であり、同じ worrying だ。/

 過去の繁栄に心を捕われ、悶々として「復興」を待っているだけの worrying は、living ではない。だが、困ったことに、カーネギーが断ち切ろうとした恐怖の強迫観念や適応障害と違って、「現代」の繁栄の思い出は、麻薬のように甘美で、我々に社会まるごと夢を見させる。しかし、それは、足を失った者が、また生えてくることを期待して待ち続けるようなもの。失った以上、義足でも車椅子でもチャレンジして、また新たな方法で歩き出すことこそ、思案すべきことなのに。

 だから、問題は、カーネギーのときより厄介だ。過去中毒の酩酊連中が同調圧力で、歩き出す新たな足に絡みつく。せっかく「復興」させようとしているのに、水を差すな、協調しろ、空気を読め、と。しかし、それは、亡霊だ。彼らの心は、もう死んでいる。議論してもムダ。彼らには聞く耳は無い。心の中は、思い出の化石だらけ。だから、夢を醒ますな、と、逆恨みするだけ。

 ニーチェは、神が死んだ、と言う。それは、どこかのだれかが自分に意味を与えてくれることなど期待するな、ということ。たとえば、登山。そこらの里山に登ったところで、えらくもないし、かっこよくもない。だから、人は、ただ疲れるだけ、愚かだ、と言うかもしれない。しかし、自分で地図を見て目標を定め、迷わず、ペースも乱さず、頂上に着いて、眺める景色は美しい。その美しさは、苦労して登らない人には、言ってもどうせわからない。

 現代は、カネだ、賞だと、人に与えられる意味に毒され過ぎているのかもしれない。絵でも、音楽でも、自分で画いて、歌って、おしまい。もともと他人に売る気なんて無いし、売れるとも思っていないのだから、売れる売れないなんて、はなから問題にもならない。むしろムリに売れようとすれば、人を楽しませようとして、自分ではまったく楽しくない奴隷のような苦行になってしまう。

 仕事や家族も同じ。他人の人生を追ってばかりいても、けして自分の人生にはならない。かといって、自分の人生を見せびらかすようなものにしようとすれば、中身が無くなる。たしかに、他人からすれば、人の人生なんて、よくある里山のようなつまらないもの。でも、気にすることは無い。人に意味を求めず、自分自身で、自分自身に意味を与えること、自分自身に意味を見つけること、そして、その意味を実現すること。

 だから、カーネギーが言うように、笑って歩きだそう。過去には帰れない。昔は取り戻せない。昨日は昨日、今日は今日。そして、その先にはかならず明日がある。僕の後に道は無い。僕の前に僕が道を開く。


Ads by Google

この記事が気に入ったらいいね!しよう
INSIGHT NOW!の最新記事をお届けします

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

フォロー フォローして純丘曜彰 教授博士の新着記事を受け取る

一歩先を行く最新ビジネス記事を受け取る

ログイン

この機能をご利用いただくにはログインが必要です。

ご登録いただいたメールアドレス、パスワードを入力してログインしてください。

パスワードをお忘れの方

フェイスブックのアカウントでもログインできます。

INSIGHT NOW!のご利用規約プライバシーポリシーーが適用されます。
INSIGHT NOW!が無断でタイムラインに投稿することはありません。