デール・カーネギー『道は開ける』をいま読む

2021.10.20

ライフ・ソーシャル

デール・カーネギー『道は開ける』をいま読む

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/戦中世代がPTSDによって戦前戦後の恐怖に精神的に強迫され続けたのとは方向が逆ではあるが、いまの我々もまた、戦後コロナ前の繁栄の期待に心を支配され続けている。コロナさえ収束すれば、あの賑わいと活気に溢れた「現代」の大衆社会が復活する、とかってに信じている。しかし、それももまた、一種の強迫観念であり、同じ worrying だ。/

 カーネギーは、彼らのニーズに応えられそうな著名人の立身出世のエピソードを講義にちりばめ、彼の講座はしだいに人気となって、各地で講演会を開くほどになっていく。その34年の受講生の中に、27歳のレオン・シムキン(1907~88)がいた。彼は、タバコスタンドのクロスワード本の小さな出版社、サイモン&シュースターの簿記係だった。シムキンは、講義の雑談部分に魅了され、その部分だけ集めて出版することをカーネギーに依頼。これが、彼の最初の本『人を動かす』(1936)。売れに売れ、彼はベストセラー講演者となり、また、シュースター社も、小型文庫本、ポケットブックシリーズを展開し、一大出版社となっていく。

 もっとも、この本は、言わば人間関係の話に特化したスマイルズ『自助論』の残滓補遺のようなもの。基本的には、あくまで著名な大成功者にあやかるという路線。実際、彼自身も、親戚でもなんでもないくせに、わざわざ鉄鋼王アンドリュー・カーネギーが建てたニューヨーク市のカーネギーホールで講演会を開き、ついには自分の苗字(Carnagey)を鉄鋼王と同じ綴り(Carnegie)に改名している。


デール・カーネギーの時代

 しかし、彼が本で成功した、ということは、じつは時代がさらに先、現代の大衆社会に転換しつつあったことを示している。米国で言えば、1900年代には有色人種の約半数、総計でも1割が文盲だったが、1940年代には、総計で3%にまで抑え込む。つまり、初等教育が行き届き、もはや本が知識人だけのものではなくなりつつあった、ということを意味する。とはいえ、もちろん、彼の本のような自己啓発書などよりも、前提知識無しにも読めるミステリやSFのパルプフィクション、スーパーマンなどのようなマンガ雑誌、『ベターホーム・マガジン』のような写真入り家庭雑誌の方がはるかに売れていたが。

 また、別の、もっと深刻な意味で、カーネギーは、読者のニーズからすこしズレていた。発達しすぎた近代の資本主義と産業革命は、1929年の大恐慌で破綻に至る。この混乱のさなかで喜々として時代錯誤の立身出世を企てられたのは、ヴィトー・コルレオーネや甘粕正彦のような、裏の世界、無法の植民地で跋扈した連中だけだろう。

 一般の庶民は、経済の大恐慌(デプレッション)とともに、精神の鬱屈(デプレッション)に襲われた。街には、途方に暮れた地方出身者や不況失業者が溢れた。そんなところに、日本が真珠湾に奇襲をかけたものだから、米国は格好の当たり散らしの標的として、しまいには原爆まで持ち出す。ところが、貧乏日本に勝ったところで、戦利品は無く、それどころか、続けて朝鮮戦争、中南米危機、ヴェトナム戦争と、得るところの無い負け戦さに巻き込まれ、世界の大国となりながらも、つねに不安定な危うさに脅かされ続けることになる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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