試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

2021.08.20

開発秘話

試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、などと言う。しかし、地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。/

このため、定住農業の拡大、人口の増加にもかかわらず、ユーラシアハイウェイ西半の肥沃なオアシス都市(シル河沿いの都市、黒海・カスピ海・アラル海の三角州都市)の交易は失われ、これにぶらさがるアラン人や隠れ匈奴人、康居人などの周辺のオアシス村も、その大商人たちからの外牧や輸送、護衛などの役務委託を得られなくなった。しかし、彼らの農業も牧畜も、過剰な穀物や羊毛など、商品化を前提としており、南の諸大帝国への輸出だけでなく、人間の輸出、つまり、傭兵として出稼ぎもせざるをえなかっただろう。

幸い、この時期、大帝国相互の国境競り合いは激しかった。ローマ帝国では、かなり前から自弁重武装の国民兵など集めることなどできず、二世紀になると、帝国そのものが縮小に転じ、周辺征服民を兵卒として徴用することさえできなくなっていた。また、この時期、戦い方からして、最終決戦型の歩兵戦ではなく、定期巡回型の騎馬戦がつねとなっていた。(いわば国境警備防衛の主力が常駐の戦車隊からスクランブル発進の戦闘機に変わったようなもの。)

それゆえ、ショット&ランができる弓騎馬傭兵は国境警備防衛に最適で、ウラル山脈東の隠れ匈奴は、旧ユーラシアハイウェイ西半の過剰外牧民たちを弓騎馬傭兵に仕立て、鋼鉄の武装(カタフラクト)込みで、黒海やカスピ海の船を使い、ローマとパルティア・ペルシアの双方に大量供給していたのではないか。


フン族来襲の目的(400年ころ)

その隠れ匈奴が、四世紀後半、フン族として突然に再登場する。しかし、ほんとうに突然だったのか。フン族がウラル山脈・ヴォルガ河を越えて黒海北岸、アラン人を征服するのは、370年ころ。しかし、彼らの最初の襲撃目標は、東ゴート人。これが、375年にローマ帝国の保護を求めた、というのが最初の記録。

ゴート人は、もともと現ポーランド、バルト海沿岸にいた。しかし、ここは、南ロシア平原の西端ながら、内陸のヴィスワ河流域は、痩せた砂地(つまり、乾燥していないだけの海没砂漠)で、農業も牧畜もできない。だから、彼らは、本来、漁民だった。それが、二世紀、南下移住を始め、ヴァンダル人とサルマティア人の間に割って入り、黒海北西岸に到達。北ロシア湿原のスラブ人なども吸収し、三世紀にはさらにバルカン半島へ下って、さかんにダキア(パンノニアとトラキアの間の山地、金銀などの鉱物資源の宝庫であり、ローマ帝国繁栄の生命線)の侵略を試みて、地中海にも進出している。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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