試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

2021.08.20

開発秘話

試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、などと言う。しかし、地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。/

同じアレクサンドロス帝国後継国のセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトとがシリアで戦っている間(274BC~241BC)に、前256年、アレクサンドロス大王によって植民されたギリシア人が東部のヒンデュークシュ高原(現アフガニスタン東北部)でグレコバクトリアとして独立。また、前247年、カスピ海東岸の印欧語族スキティア人の残党の一部が南下し、イラン高原北部にパルティアを建国。前212年、セレウコス朝シリアは、パルティアおよびグレコバクトリアへ遠征し、かろうじて両国を支配下に回復する。

一方、中国では、ようやく統一を果たした秦の始皇帝(221BC~210BC)は、鹿城に至る直道と、国境の長城を築いて匈奴に対抗。しかし、匈奴では、前209年、バガトル(冒頓)が父王を殺して政権奪取し、中国東北部のツングース語族の東胡を滅ぼして、さらに中国を浸食。秦を継いだ前漢(206BC~8AD)は、匈奴を攻めるも失敗し、かえって毎年に貢納を収めるはめに。匈奴は、さらに敦煌の月氏(アリマスピア)も追いやって、西域へも進出。かくして、匈奴は、モンゴルから中央アジアに渡る大帝国を誇るようになる。

スキティア人残党が興したパルティアは、前202年、第五次シリア戦争でエジプトに勝利するも、第二次ポエニ戦争(219BC~201BC)でカルタゴを潰して勢いづくローマとの戦い(192BC~188BC)に敗退して、内紛に陥った。このころ、匈奴に追われた月氏(アリマスピア)は、中央アジアに入ると、ソグディアナに残っていたサカ人(旧イッセドネス人(乙))を追い出し、さらに、南にできたグレコバクトリアやパルティアと衝突していた中央アジアの新マッサゲティア(大夏(ダイゲ))人に合流して、大月氏となる。

このため、その支配下にあった旧マッサゲティア人(残留アーリア人)の一部は、北のカザフステップに逃げて康居(印欧語族)を建国。そのせいで、黒海北岸のサルマティア人(スキティア人を吸収した旧イッセドネス人)がさらに西に追いやられ、アラン人と呼ばれるようになった。また、大月氏にソグディアナを追われたサカ人(旧イッセドネス人)の一部は、パルティアに逃げ込んだ。

グレコバクトリアは、パルティアと同盟して守りを固める一方、インド・マウリア朝の衰退に乗じ、前200年、ヒンシュークシュ山脈を越えてガンダーラ地方へ拡大し、インドグリーク朝を建国。しかし、パルティア(カスピ海スキティア人残党の国)は、このすきにバクトリア西部を奪取。また、シリアがユダヤ反乱に追われている間に、アルメニアやメディアがシリアから離反したため、パルティアは、前155年、メディアを奪い、前141年にはバビロニアをも征服。また、大月氏も、配下諸部族を使って、前140年ころ、グレコバクトリア本国を征服してしまい、敗退した残党はインドグリーク朝に逃げ込み、内戦に陥る。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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