試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

2021.08.20

開発秘話

試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、などと言う。しかし、地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。/


安定の後二・三世紀と隠れ匈奴

後二世紀になると、地中海世界をローマ帝国、中東をパルティア王国・サーサーン朝ペルシア帝国、中央アジアをクシャーナ朝、モンゴルを鮮卑、中国を後漢・三国、と、それぞれの地域世界を大帝国が安定して支配するようになる。逆に言うと、これまでの諸部族は、これらのいずれかに吸収された、ということであり、また、大帝国と大帝国が接するところでは激しい紛争がつねに続いていた、ということでもある。

これらの大帝国の外に残されていたのが、ユーラシアハイウェイの北側。西から、黒海北岸のアラン人(スキティア人+イッセドネス人)と、カザフステップ東半の康居人(印欧語族旧マッサゲティア人)天山山脈北側西部の烏孫人(復興イッセドネス人)。これらは、半農外牧で、夏営地と冬営地を往復移動する、いわゆる遊牧民的な生活を営み、落ち着いていた。

さて、鮮卑に中国を追われた北匈奴が、フン族としてヨーロッパを襲撃する四世紀半ば年まで、二百年以上、どこかでひそかに勢力を温存、それどころか拡大していたとすれば、カザフステップの西半しかない。ここへなら、追撃する鮮卑を避けてユーラシアハイウェイの天山山脈北側より手前で西北に抜け、西シベリア低地に近い草原を通ってたどり着くことができる。

もとより匈奴が中国北部で台頭した理由は、鋼鉄の量産。じつは、ウラル山脈の東、西シベリア低地との境、コスタナイにも、露天掘りができる巨大鉄鉱床がある。おそらく彼らはここ鉄鉱石を採って鋼鉄の武器や馬具を大量に作り、武装強化する諸大帝国に販売していたのではないか。実際、このあたりは地の利がある。ヴォルガ河経由で、ローマ帝国につながる黒海にも、パルティア・ペルシアにつながるカスピ海にも出られる。重量のある鋼鉄の武器や馬具を運ぶには、ラクダより水運だろう。

馬具として決定的だったのが、彼らの発明したアブミ。中国の馬に対して、中央アジアの馬(いわゆるフェルガナ馬)は大型で、それに乗るためには足かけが必要になった。だが、これを鞍の両側に付け、騎乗して立つと、馬の振動を足で吸収して、弓射の精度が劇的に向上した。しかし、アブミを付けたとしても、それで正確な騎乗弓射ができるようになるには、相応の訓練が必要だっただろう。

だから、鋼鉄の武器や馬具以上に隠れ匈奴の中心的な仕事になったのは、ローマやパルティア・ペルシアへの弓騎馬傭兵の派遣業だろう。このころ、東西交易路は、サマルカンドから西は、大型の戦車や荷馬車が通れるクシャーナ朝、パルティア・ペルシア、ローマの整備された交通網を使うように、南へ大きく迂回してしまった。このため、カザフステップと黒海北岸を抜ける従来のユーラシアハイウェイ西半は廃れ、ラクダのキャラバンなど時代遅れになってしまった。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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