試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

2021.08.20

開発秘話

試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、などと言う。しかし、地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。/

一方、ペルシア帝国に負けて捉えられたメディア人やリュディア人、バビロニア人、サカ人などは、奴隷傭兵とされた。この大量の兵力を得た皇帝ダーラヤワウ(ダレイオス)一世(522BC~486BC)は、北のコーカサス山脈をおびやかす黒海北岸のスキティア人を背後から追うべく、前513年、黒海西岸トラキアへ遠征。しかし、スキティア人は、東に逃げてしまって、戦闘にならない。

続くペルシア戦争(499BC~449BC)では、皇帝ダーラヤワウ一世(522BC~486BC)は、西のギリシアと戦ったが、その間に、黒海北岸のスキティア人が逆に南下し、トラキアを奪取。そして、彼らは、四世紀、荒れるギリシアに代わって、アドリア海に抜けるバルカン半島横断ルートを支配し、スキティア王国としての繁栄を謳歌。しかし、南のマケドニアにピリッポス(フィリップ)二世(382BC~36BC)が登場して、このスキティア王国を攻撃。ヨーロッパの原住民、ケルト人がこれを黒海北岸へ押し返した。


アレクサンドロスの東征と影響(前四世紀~前二世紀)

前四世紀後半、マケドニアのアレクサンドロス大王(356BC~323BC)が東征。ペルシア帝国を滅し、バクトリアを経て、前329年、中央アジア、ソグディアナのサマルカンド市まで到達。同地のマッサゲティアを服属させ、その族長の娘ロクサネと結婚するも、シル(ヤクサルテス)河北のサカ人(旧イッセドネス人、サカ、塞)は頑迷に抵抗。その一部は、ヴォルガ河を越えて逃げ、黒海北岸のスキティア人を吸収し、サルマティア人となる。

アレクサンドロス大王が去った後、後継者争いの末、その帝国の地中海東岸からインダス河までをセレウコス朝シリア(312BC~63BC)が継承。しかし、同じころ、チャンドラグプタ(?~c298BC)がインドを統一して、マウリヤ朝を建て、前305年ころ、インダス河の西、スレイマン山脈までを奪還。前三世紀半ばにはアショーカ王が登場し、版図を南へ拡大し、仏教を隆盛させる。

このころ、天山山脈は、中央アジア側を新マッサゲティア人、中国側を月氏(アリマスピア)が抑えており、無人のモンゴル高原ゴビ砂漠を挟んで、東北にはツングース語族の東胡(ヒュペルボレイオス)がおり、また、モンゴル高原ゴビ砂漠の南、黄河が大きく北に回り込む陰山山脈南麓の鹿城(現包頭市)には、前1600年ころに青銅器の殷朝に敗退した前夏朝残党、匈奴(ヒュンヌ)が暮らしていた。ところが、その鹿城の80キロほどの真北、内モンゴルのバヤンオボー(豊穣な神の山)で、露天掘りのできる巨大鉄鉱床が見つかった。これによって、匈奴は大量の鉄器を手にして、戦国時代(403BC~221BC)で混乱する中国に騎馬で攻め込むようになる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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