試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

2021.08.20

開発秘話

試験に出る!いま熱い古代東西交流史(2)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/「世界史」というと、山川の教科書ですらいまだに、それは近代になって成立した、などと言う。しかし、地域史をつぎはぎにしていても、世界史は見えてこない。東西交流史を理解するには、最初から全体像を概観的に掴む文明論的視点、地球儀的思考が求められる。仮説的ながら、あえてその概観を試みてみよう。/



弓騎馬民と諸民族の激動(前九世紀~前四世紀)

敦煌のアリマスピア人をはじめとする天山山脈のテュルク語族は、新たな騎乗法と複合弓で、バクトリアを取り戻し、行動攻撃範囲を劇的に拡げ、前九世紀ころ、キジルクム砂漠からアム河南のカラクム砂漠まで支配を確立、カスピ海東岸の印欧語族スキティア人も追い払う。そのため、スキティア人の一部は、カスピ海南岸イラン高原のメディア王国に合流。セム族の新アッシリア帝国は、これを脅威として前835年ころから遠征を繰り返し、前737年にようやくメディア王国を併合。

スキティア人の別の一部は、カスピ海を東岸沿いに北上。しかし、この一帯には、敦煌のアリマスピア人に追いやられたイッセドネス人(塞、サカ)も逃げてきており、スキティア人はさらに西進を強いられる。このため、カスピ海北岸にいた同じ印欧語族キンメリア(ギミッラーヤ)人は、前714年ころ、黒海とカスピ海の間のコーカサス山脈を越えて南に逃げ、新アッシリア帝国と衝突。そこで、西のアナトリアへ向かい、フリュギア、そしてリュディアを侵略したが、前640年ころ、やはり新アッシリア帝国に滅ぼされてしまった。

メディア王国(テュルク語族にバクトリアを追い出された印欧語族アーリア人)は、新アッシリア帝国に併合されてしまったものの、ザグレブ山脈東南部の同族ペルシア王国(インドからの出戻り印欧語族アーリア人)を攻撃して吸収。その上で、同じく帝国内のメソポタミア低地のバビロニアやアナトリア半島のキンメリアなどの残存反帝国諸勢力と連係し、前612年、新アッシリア帝国を滅ぼす。これによって、メディア王国は、一時的ながら、アナトリア半島東半からシスタン盆地(現アフガニスタン西南部)まで広がるイラン高原の支配者となった。

しかし、前550年、ハカーマニシュ(アケメネス)朝ペルシアのクル(キュロス)二世が、このメディア王国を滅ぼし、アナトリア半島西半のリュディア王国、メソポタミア低地の新バビロニア王国も吸収。さらに、中央アジアに侵攻し、北部サカ人(旧イッセドネス人)を支配下に納め、大麻で酔わせて東部の新マッサゲティア人(バクトリアを取り戻した天山山脈のテュルク語族)を殺害捕獲。しかし、前529年、女王の猛反撃で、ペルシアのクル二世は戦死。

ところで、このころ、インドガンジス河流域では、ヴァルナ、いわゆるカースト制が敷かれ、征服アーリア人(印欧語族)が第一位のバラモン(僧侶)、原住帰順民ドラヴィタ人が第三位のヴァイシャ(平民)、そして敗戦民が第四位のシュードラ(労働奴隷)とされていた。では、第二位のクシャトリア(武人)はというと、ペルシア帝国の拡大で、後からインドに逃げ込んだ弓騎馬民(テュルク語族?)であり、その過剰が十六大国の分裂内戦をもたらしたらしい。そして、その争いのさなかの前480年ころ、サカ(シャーキヤ)族の王子として、シッダールタが生まれる。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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