江戸時代の庶民文化と社会対流

2020.08.27

ライフ・ソーシャル

江戸時代の庶民文化と社会対流

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

​/江戸時代、日本は驚くべき文化大国だった。いわゆる「鎖国」下で、天下泰平を享受して独自の文化を醸成し、武家、商家から庶民まで、男女を問わず、それぞれに芸事を嗜んだ。それは、硬直した身分制に対して、価値転倒的な気風を含み、実際、それは身分を超えた社会対流を可能にした。/

しかし、その師範も、じつのところ、もはや実戦経験など無い。そんな中、剣客の辻月丹(1648~1727)が小石川に辻道場を開く。その門人が、1678年ころ、実際に仇討ちを果たして有名になり、大名からその陪臣たちまで一万の門弟を得ることになる。一方、長沼道場は、正徳年間(1711~15)に小手と竹刀を使い、安全に練習できる道場として、全国の一代流派に成長していく、これと並ぶのが中西道場で、1763年に痛くない胸当を導入。これもまた江戸だけで三千人の門弟を抱えるに至る。

これらの道場では、初段から十段、そして、免許皆伝、師範にまで至る細かな段位制を敷き、実戦無き時代に昇段を励みとした。教育課程を整え、師範を養成し、全国に道場分けしていくこの仕組みは、流派創始者一人を越える全国組織を成し、その「家元」は、武家などと同様の世襲利権となっていく。一方、各地方の家中も、他流派を知るべく、また、全国各地の家中と人脈を築くべく、優秀な若者を江戸などの道場に積極的に留学させるようになっていく。

とはいえ、戦乱は遠くなり、幕府も文治へ舵を切り、武芸試合が敬遠される一方、囲碁四家、将棋三家が幕府に抱えられ、固定された身分制にあって、将軍や大名から庶民まで、対等に実力で競い合える場として、御城勝負を頂点に各家門弟が切磋琢磨した。ここにおいて、有力棋客は弟子を取るようになり、ここでも、駒落ちでも勝てる程度に応じて、段位制が整えられていく。また、独習用の棋譜の出版も人気で、大橋本家家元、大橋宗桂(1555~1634)らによって数々の詰将棋本などが出された。

また、商家はもちろん、武家においても、米本位の収税に伴い、武道よりも、測量や収支の計算事務の必要性が高まる。ここにおいて、それまでの算木に代わって算盤が普及し、武家の子弟教育はもちろん庶民の寺子屋でも、算術は必須科目となっていく。『塵劫記』(1627)などもまた、この算盤の実践的応用問題として生まれてきたものだった。しかし、算盤の四則演算だけでは解けない難問もあり、関孝和(?~1708)らが中国の古い天元術を応用して代数学の基礎を打ち立て、一派を成す。

そのほかにも各地に算術の流派が乱立し、寺社の算額を通じて競って多くの弟子を集めた。しかし、土木測量などを除けば、これらの和算は実用性の無い趣味だった。しかし、関流で幕府天文方の山路主住(1704~73)は、この算術にも段位制による教育課程を整え、武芸同様、各家中からの留学生を迎え入れ、一代流派へと成長させた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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