江戸時代の庶民文化と社会対流

2020.08.27

ライフ・ソーシャル

江戸時代の庶民文化と社会対流

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

​/江戸時代、日本は驚くべき文化大国だった。いわゆる「鎖国」下で、天下泰平を享受して独自の文化を醸成し、武家、商家から庶民まで、男女を問わず、それぞれに芸事を嗜んだ。それは、硬直した身分制に対して、価値転倒的な気風を含み、実際、それは身分を超えた社会対流を可能にした。/

これとは別に、堺の薩摩浄雲は、義経よりはるか前、河内源氏に題材を採り、豪壮な世俗武芸人形劇を始め、「金平浄瑠璃」(古浄瑠璃)と呼ばれる。これは、京を追われた源頼義の将、坂田金平ら「子四天王」が悪人たちを退治する、というもので、宮廷や幕府のウケも良く、江戸での興行を成功させ、軍記物連作に発展していく。ここで使われた人形は、伎楽のような異形面妖な風体のものが多かった。(参考:『弘知法印御伝記』大英博物館本挿絵)

遊女や若衆(少年男娼)による猥雑なカブキ踊りもまた、三味線を採り入れ、数十人が舞台に上がる豪華絢爛たるショーに拡大。能狂言が式楽化して武家に囲い込まれていく中、京の大蔵流狂言師、中村勘三郎は、阿国が男装したカブキ者「名古屋山三郎」の愚鈍な家来「猿若」を演じ舞い、コミックリリーフとして人気を得る。1624年、このコメディ部分、ものまねや啖呵、音頭などが独立し、江戸に常設劇場、猿若座(後の中村座)を開き、将軍の道化として名声を高める。しかし、幕府は、熱狂高まる遊女や若衆のカブキ踊りは危険視し、1629年来、繰り返し禁令を出すようになる。

また、1635年、結城孫三郎が日本橋堺(人形)町で結城座を開く。これは、手板の二十本前後の糸で操る糸吊り人形で、当初は短い説経節だったが、のちに浄瑠璃も演じるようになる。大阪では、1662年、時計職人の竹田近江(~1704)が道頓堀で、複雑な機械仕掛けで水手品なども組み込んだからくり興行で評判となる。また、浄雲門下の桜井和泉太夫や虎屋源太夫なども、からくり人形を採り入れ、江戸堺町に常設小屋を持った。

日蓮宗僧侶から還俗した露の五郎兵衛(1643~1703)は、辻話を始め、これが落語の祖とされる。また、京の公家に仕えたことのある近松門左衛門(1653~1725)は、縁あって浄瑠璃を書くようになり、独立して大阪道頓堀に竹本座を興した竹本義太夫が、彼の仇討ち話の『世継曽我』(1683)で大成功する。同じころ、1685年、市川団十郎(1660~1704)は、江戸市村座で坂田金平を演じ、金平浄瑠璃を取り込んで、「荒事」を確立する。そのキャラクターたちの異形面妖な風体は、人形を模したものだった。

1703年4月、大阪堂島で女郎と手代の心中事件があった。近松と竹本は、これを翌5月には人形浄瑠璃として上演。時事メディアとしての「新浄瑠璃」を確立する。05年には竹田近江の子、竹田出雲(?~1747)が竹本座を引き継ぎ、みずから『菅原伝授手習鑑』を書く。彼らは江戸の団十郎とも交流があり、彼らの作品は、歌舞伎としても上演されるようになっていく。また、浄瑠璃の人形も大型化し、1734年の『芦屋道満大内鑑』で三人遣いとなった。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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