江戸時代の庶民文化と社会対流

2020.08.27

ライフ・ソーシャル

江戸時代の庶民文化と社会対流

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

​/江戸時代、日本は驚くべき文化大国だった。いわゆる「鎖国」下で、天下泰平を享受して独自の文化を醸成し、武家、商家から庶民まで、男女を問わず、それぞれに芸事を嗜んだ。それは、硬直した身分制に対して、価値転倒的な気風を含み、実際、それは身分を超えた社会対流を可能にした。/


教育文化と段位制

これらの庶民文化成立の背景には、教育水準の劇的な向上があった。急造の江戸や大坂には、地方から各家中の江戸屋敷や蔵屋敷に大量の武士がやってきただけでなく、これらの生活を支えるために、地方から大勢の人々が移り住んだ。くわえて、大阪の陣、島原の乱の後の改易などによって排出された多くの浪人武士なども江戸や大坂に流れ込み、当座の仕事で食いつなぐとともに、再仕官の機会を狙った。

実際、17世紀において、まだ社会は固まってはおらず、江戸や大坂には多くのチャンスがあった。それゆえ、奉公の機会を得るために、貧しい長屋の子まで、読み書き算盤を学ぼうとし、この需要に教養ある浪人武士が寺子屋を開いて応じた。寺子屋は、各町内にあり、それぞれ数十人の筆子を抱え、江戸だけで大小千件近くはあっただろうと言う。ここでは、「往来物」と呼ばれる印刷物が教科書として用いられた。これは、本来、往復書簡を意味したが、実際は、十二ヶ月二十五通にわたる『庭訓往来』(室町前期)のように、一般教養を学ぶことに重点が置かれている。

地理や歴史では、能が故事を題材とすることが多かったので、木版刷りの能の謡本が用いられた。とはいえ、庶民は、武家の式楽となってしまった能を見る機会は無かった。しかし、能のワキ方が副業として地謡を語り、やがて能を離れて地謡専門の役者が現れ、謡を教え始めるようになる。

また、京で小笠原流を学んだとかいう水島卜也(1607~97)は、江戸で武家奉公のための礼法私塾を開く。とはいえ、本来の小笠原流は室町時代の弓馬を中心とする武道故実で、礼法としていかなるものだったか、危うい。にもかかわらず、早々に『小笠原百箇条』(1632)として往来物を出版。これが寺子屋に採り入れられ、標準化。幕府もまた、成り上がりの急ごしらえだったため、将軍綱吉は、子の徳松の三歳の髪置の儀で卜也に頼り、この自称小笠原流礼法が事実上の幕府公認となって、いよいよ全国に広まった。

実際の武家においても、戦乱の終わりとともに、国元および江戸で、日頃の武芸の修練養成が必要となり、これとともにそれぞれの家中で、その教育課程も整えられていく。薩摩島津家『示現流兵法書』(c1620)においては、四段位の別が立てられ、それぞれの技が論じられている。ただし、武芸は、それぞれの家中で秘伝だった。ところが、仕官志望の浪人、養子入りを要する次男、三男が増えてくると、市中に一般道場もできてくる。江戸だけで、流派は二百近く、道場は五百を超えたという。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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