江戸時代の庶民文化と社会対流

2020.08.27

ライフ・ソーシャル

江戸時代の庶民文化と社会対流

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

​/江戸時代、日本は驚くべき文化大国だった。いわゆる「鎖国」下で、天下泰平を享受して独自の文化を醸成し、武家、商家から庶民まで、男女を問わず、それぞれに芸事を嗜んだ。それは、硬直した身分制に対して、価値転倒的な気風を含み、実際、それは身分を超えた社会対流を可能にした。/

浄瑠璃や歌舞伎の全国的流行とともに、三味線も急速に普及する。義太夫は、三味線音曲としても画期的だった。それは、響きの重い太棹三味線で唸るもので、「義太夫節」と呼ばれた。一方、京都の都太夫一中(1650~1724)は、中棹を遣い、その弟子の宮古路豊後掾(1660~1740)は1734年、江戸に移って心中道中ものの「豊後節」をはやらすが、1739年に禁止されてしまう。そして、その兄弟子の宮古路文字太夫の作った、音程幅が狭く、ゆったり重厚な「常磐津節」が歌舞伎の基本BGMとなる。一方、禁じられた豊後節は、1751年、鶴賀新内によって、歌伸びと音程飛びの多い、一人流しの「新内節」となり、『蘭蝶』『明烏』など、遊里の端ものとして人気を得る。

細棹を使った歯切れのよい「長唄」は、舞踏曲『娘道成寺』などに用いられていたが、笛鼓のお囃子とともに歌舞伎の情景描写(「黒御簾」)に採り入れられていく。さらに1814年になると、豊後節の弟子筋で、高音の技巧を生かした艶っぽい「清元節」も、歌舞伎の場面の中に採り入れられた。また、落語の『寝床』(1775)で知られるように、上手くもないのに趣味で義太夫語りを習って人に聞かせたがる男も少なくなかった。

浄瑠璃や歌舞伎、音曲の流行はまた、出版文化の隆盛と表裏一体だった。それまでの写本に代って、京都で古典木版本が商業出版されるようになり、1682年になると、大阪で井原西鶴の『好色一代男』のような多種多様な通俗的浮世草子が大量に出版されるようになる。これらには、一色墨刷りながら菱川師宣(1618~94)などの挿絵も入っていた。これと平行して、版元不明、絵師匿名で、大量の印刷春画も作られ、急速に印刷技術を向上していく。

十八世紀半ばにもなると、江戸で俳人たちが余興で豪華な多色刷りの暦を作るようになり、その原画を鈴木春信(1725~70)のような肉質浮世絵師に依頼したことで、今日のグラビアに相当する芸術的な「錦絵」が印刷物として庶民の手の届くところとなった。しかし、ここで中心となったのは、結局は、庶民の関心の的、すなわち、遊里の美人画と歌舞伎の役者絵だった。

ここにおいて、勝川春草(1726~93)を中心とする勝川派ができる。これを追って、歌川豊春(1735~1814)が歌川派を成した。遊女や役者での人気は、美人画や役者絵と持ちつ持たれつの関係にあり、遊里や歌舞伎は、積極的に浮世絵師に協力した。とくに歌川派は、量産のため、総計五百名もの弟子を抱え、出版を斡旋。有力者には積極的に歌川姓と家紋を許した。この歌川家紋「年之丸」は、小屋との提携で、芝居木戸御免(無料)の特権があり、さらに多くの入門者を集めることになる。もっとも、勝川派を破門された幕末の天才、北斎(1760~1849)は、なんのメリットもないにもかかわらず、一人に数百の弟子が押しかけたという。

Ads by Google

この記事が気に入ったらいいね!しよう
INSIGHT NOW!の最新記事をお届けします

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

フォロー フォローして純丘曜彰 教授博士の新着記事を受け取る

一歩先を行く最新ビジネス記事を受け取る

ログイン

この機能をご利用いただくにはログインが必要です。

ご登録いただいたメールアドレス、パスワードを入力してログインしてください。

パスワードをお忘れの方

フェイスブックのアカウントでもログインできます。

INSIGHT NOW!のご利用規約プライバシーポリシーーが適用されます。
INSIGHT NOW!が無断でタイムラインに投稿することはありません。