/産業革命は、たんなる生産経済の効率化でなく、社会構造を根底から変えた。/
蒸気機関が最初の実用化された乗物は、一八〇七年のフルトンの蒸気船でした。その外輪式のクラーモント号は、政治家リビングストンの資金で制作され、イギリスのワット商会の機関を搭載し、アメリカのハドソン川のニューヨークとオルバニーとを三二時間で航行する定期便となったのです。また、ヨーロッパでも、イギリスはスコットランドのクライド川で、ヘンリー=ベルがコメット号の運航を始めます。しかし、このコメット号はわずか三馬力しかなかったことからも、当時の蒸気船がどの程度のものだったのか、想像がつくことでしょう。しかし、その後、数十年のうちに、とくにアメリカの川や湖の各地で定期蒸気船が就航するようになり、顧客競争をするほどになります。
外洋においては、一八〇九年、スティーブンスの作った外輪船フェニックス号がモージス=ブラウン船長によってニューヨーク沿岸の航行し、その十年後の一八一九年、同船長によってアメリカの外輪帆船サバンナ号がジョージア~リバプール間の大西洋横断に成功してはいます。しかし、サバンナ号の約四〇日の航海中、機関を動かしたのはわずか八十時間あまりでしたし、九〇馬力もの機関の爆発を恐れてか、乗客はひとりもいませんでした。実際の外洋定期運航は、イギリスの世界最初の鉄製船で蒸気機関を積んだアーロン=マンビー号が一八二二年からロンドン~パリ間に就航したのが最初でしょう。しかし、これも油や鉄を運ぶ貨物船でした。
むしろ、この時代の外洋の花形はなんといっても大型高速帆船です。産業革命とともに世界をまたにかけて始まった三角貿易で、この大型高速帆船が、中国茶を英国へ、英国綿製品をインドへ、インドアヘンを中国へ運んでぼろもうけするようになっていったことは有名でしょう。しかし、この大型高速帆船が実際に最も活躍したのは、ホイットニーの綿繰機によって急成長したアメリカ南部の綿花をイギリスの紡績工場に運ぶ仕事でした。そして、このルートの確立によって、アメリカ南部の奴隷需要も一気に急増し、そして、ここでも大型高速帆船は活躍したのです。イギリスでもアメリカでも、十九世紀初めには名目上は奴隷貿易を禁止していますが、その奴隷船はいまや軍艦よりも速く、各国とも黙認せざるをえません。このように、アメリカは綿花を売って奴隷を買い続けたのです。
5 交通革命③:陸運
ところで、アメリカにおいて、フルトンとリビングストンがすでにニューヨーク州内の蒸気船の二十年間独占権を握ってしまいました。これに遅れをとったスティーブンズは、やがて内陸の鉄道をめざすことになります。そして、一八一五年、彼はニュージャージ州から最初の鉄道敷設許可を取り付けます。そのころ、すでにイギリスでは、ジョージ=スティーヴンソンがキリングワース炭坑の石炭鉄道に蒸気機関車を利用し始めていました。そして、彼は、鉄橋などの最新土木技術を駆使して、一八二五年、ストックトン~ダーリントン間約四五キロの市街鉄道を開通させました。そのアクティヴ号が牽引する列車構成には、客車六両、貨車六両の他に、労働者用貨車が十四両も含まれていたことは注目すべきでしょう。鉄道は、娯楽のためではなく、その最初からまさに大衆の乗物として運行されたのです。ロンドンの乗合馬車が走り始めたのが、その四年後の二九年であることから見ても、このことは驚くべきことです。そして、その二九年には、同じイギリスで、早くも乗合蒸気自動車が登場してしまっているのです。
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
