第八章 十九世紀産業革命と社会の変貌

2025.10.14

ライフ・ソーシャル

第八章 十九世紀産業革命と社会の変貌

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/産業革命は、たんなる生産経済の効率化でなく、社会構造を根底から変えた。/

 このフランスの技術教育制度は、同様に技術を吸収する必要のあったドイツのプロシア王国やザクセン公国においても模範とされ、後に工科大学となるベルリン工業学院以下、各種の工業学校が設立されました。そこでは、フランスのように自主的にイギリスの先進技術を吸収しうる技術企業家は未発達であっただけに、この国家主導の技術普及の意義は、より大きなものとなっていました。

 フランスのエコール=ポリテクニークは、その後、十八世紀の貴族学者たちのアカデミーに取って代って、科学革命以後の蓄積した知識を体系化し、先進科学の中心地となって、数学者ポアンカレや物理学者カルノーら、十九世紀の大科学者たちを次々と輩出します。しかし、それよりはるかに重要だったことは、このような工科学校が、フランスにおいても、ドイツにおいても、鉄道業などに進む多くの技術企業家たち、政府や軍隊の中枢を担う多くのテクノクラート(技術官僚)たちを生み出していったことです。そして、このような技術企業家や技術官僚こそが、十九世紀の社会と政治と経済を切り開いていったのです。

10 企業の成立

 イギリスにおいて、産業は、資本と技術とを同時に持つ技術企業家が主導的でしたので、そこでの資本は、利潤の再投資を基本とするものでした。そして、とくに、ナポレオン戦争後に世界の工場として国内が全般的に繁栄するに至って、次第に、産業全体の社会的分業が発達していきます。すなわち、諸製造業が少数品種・大量量産でコストダウンを図る一方、仲介業、運輸業、小売業、金融業、保険業、など、製造周辺業務が独立の事業として外化されてくるのです。これらの事業は、いずれもたいていパートナーシップに基づく個人経営的なものでしたが、しかし、このような社会的分業は、いずれの業種においても量的効果を発揮してコストを引き下げ、イギリス産業の国際競争力をますます強いものにしていきました。

 一方、イギリスに出遅れたアメリカやフランス、ドイツでは、これに対抗するために、当初からの大量の資本投下を必要としていました。しかしながら、そのような大量の資本を投資できる大企業家など、いまだ存在していなかったのです。この資本の不足を解決するには、ひとつには、外国資本を誘致することです。こうして、イギリスからアメリカやフランスに、イギリスやフランスからドイツに、資本が導かれていきました。資本の不足を解決するもうひとつの方法は、国内資本をかき集めることです。すなわち、それは、株式会社制度などです。とくに巨大な資本を必要とする鉄道などの公共事業は、先にも見たように、株式会社制度の普及に大きく貢献することになります。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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