/歴史的な差別を近代が解放した、というのは、捏造された近代の神話だ。むしろ近代化こそが、人間の標準理想像をあまりに狭く画一的に定義したために、同調圧力によって、そのミドルクラスモラリティから漏れる人々を社会から排除し、かえって人権抑圧を引き起こした。この独裁者無き全体主義と戦うために、多くの人道思想家たちが自分自身の人生を賭けて奔走した。/
- 26.01. 中世における自然の多様性
26.02. マチズモ的人間観
26.03. 閉じ込められた人々:16~18世紀
26.04. 女性と革命:18世紀後半
26.05. 教育と中産階級:1800年頃
26.06. 生活改善運動:19世紀初頭
26.07. 現実主義的人道主義者:19世紀半ば
26.08. クリミア戦争とカンザス戦争:1850年代
26.09. アメリカ南北戦争:1860年代
26.10. アメリカ南北戦争後:1864~73年
26.11. 長期不況:1873~99年
26.12. 帝国主義:1900年頃
26.13. 第一次世界大戦:1910年代
26.14. 第一次世界大戦後:1920年代
26.15. 第二次世界大戦:1930~45年
26.16. 戦後:1945年~
(承前)
26.08. クリミア戦争とカンザス紛争:1850年代
1848年の革命後、バルカン半島のスラヴ系モンテネグロ自治領は独立を求め、オスマン帝国との紛争を引き起こしました。ロシアがこれを支援したため、フランスと英国は1854年にクリミア半島のロシア海軍基地を直接に攻撃し、国際戦争へと発展しました。フランスは30万人の兵士を動員し、英国も10万人を派遣しましたが、要塞は堅固で、両国は甚大な犠牲者を出しました。しかし、じつは、ほとんどが後方の野戦病院での死者でした。このスキャンダルを受けて、ヴィクトリア女王(1819-th37-1901)はナイチンゲールを現地に派遣しました。彼女は野戦病院での死亡率を10%未満にまで減少させました。
「どこの政府にとっても、下層の兵士は使い捨てのコマだった。でも、このスキャンダルは庶民が政府を倒す口実になりかねなかった」
リール大学の教授、パスツール(1822-95)は、1857年、微生物による腐敗と発酵のメカニズムを解明しました。これにより、これまで医学界でオカルト的なものとして扱われてきたゼンメルワイスやナイチンゲールの衛生消毒法の有効性が、ついに科学的に証明されました。以前はゼンメルワイスを否定していたベルリン大学病理学教授のカール・フィルヒョウ(1821-1902)も、政治家になって、清潔な水供給と下水道整備を通して公衆衛生の向上を推進しました。
「ようやく理論が実践に追いついた」
独立が確立され、先住民の「インディアン」が追放されると、地方自治を重視する民主党がアメリカ合衆国で優勢になりました。さらに、1849年以降、人々は金鉱を求めて西海岸のカリフォルニアに殺到しました。中西部への交通網はすでに整備されていましたが、ここで問題となったのは、ロッキー山脈を横断する大陸横断鉄道を建設するルートでした。イリノイ州からの北ルートか、テキサス州からの南ルートか。しかし、これは米国政府の事業ではなく、民間企業と地元住民の仕事でした。イリノイ州選出のスティーブン・ダグラス上院議員(1813-61)は、1854年、渓谷だらけの西のバッドランズを、北部「ネブラスカ準州」と南部「カンザス準州」に分割し、それぞれの準州が奴隷制の是非を独自に決定できるようにすることで、鉄道建設への投資を呼び込もうとしました。
「険しい内陸部の北部では、大陸横断鉄道の誘致は死活問題だった」
しかし、この政策はカンザスを「血塗られた地」へと変えてしまいました。1856年、カンザスの保安官は武装蜂起の疑いで奴隷廃止派の新聞社を襲撃し、破壊しました。翌日、マサチューセッツ州選出の上院議員がイリノイ州選出のダグラス上院議員を批判したところ、サウスカロライナ州選出の下院議員が議場で彼を奴隷のように杖で打ち、瀕死の重傷を負わせました。その2日後、ジョン・ブラウンとその一団はカンザスで奴隷制度擁護派の活動家5人を殺害し、こうして南北戦争の前哨戦が始まりました。当時、ドレッド・スコットが、最高裁判所で裁判を起こしていました。彼は自由州のイリノイ出身でしたが、奴隷州のミズーリで働いていました。彼は自由を求めましたが、認められなかったため、最高裁判所に提訴したのです。1857年の最高裁判所の判決は、黒人は米国市民ではなく、訴訟を起こす権利もない、というものでした。しかし、最高裁判所の差別的な判決にもかかわらず、カンザスの紛争は南部の奴隷たちを蜂起させるには至らず、ジョン・ブラウンは1859年にアメリカ史上初の反逆罪で処刑されました。
「たしかに黒人たちはアメリカ独立の大義のためにやってきた自発的な移民でも、その子孫でもなかった。国家を分裂させる問題を避けるため、最高裁判所は彼らを一種の外国人として扱った。実際、当時、英国はスペインやフランスの植民地支配に対抗するため、南米やアフリカ諸国の独立を支援していた。この目的のために、英国は黒人をアフリカに帰還させる計画を立てていた。しかし、奴隷廃止論者にとって、最高裁判所の判決は黒人の人権を否定するものにほかならなかった」
歴史
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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