無常を追う日本的無常観

2022.07.21

ライフ・ソーシャル

無常を追う日本的無常観

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/渦中の権勢の栄枯盛衰を横目に眺め、これをむなしい「無常」と断ずる。ところが、その言葉は、まさに渦中の権勢そのものに向けて発せられ、それにマウンティングすることで、かえって自身を渦中の上に位置づけようとする試みになっている。兼好が筆を折り、世阿弥や利休が時の権力者から嫌われていくのも、この巧妙なマウンティングの企図が権力者側から読み解かれてしまったからだろう。/

はたして道長の懸念、新時代の気風は、子の頼通(992~1074)の時代に早くも現実となる。関東がふたたび平忠常の乱(1028)で荒れ、これを収めた清和源氏が武士として台頭。養女を取ってまで入内させるも男子は生まれず、百年来の外戚としての摂関政治の根幹が揺らぐ。あいかわらず洪水や暴風、疫病が繰り返され、1032年には富士山も噴火。おりしも、最澄の著作とされる『末法灯明記』から、1052年をもって、釈迦没後1500年の末法の世とされ、実際、1051年、離反を図る東北の豪族に対して終わりの見えない前九年の役(1051~62)が起こり、頼通もまた浄土教を信奉して、道長の別荘、宇治殿を阿弥陀仏を祀る壮麗な平等院鳳凰堂に改修。


俗物出家の無常のありか:平安時代末期

1068年、後冷泉天皇が皇子無きまま崩御。このため、藤原家を外戚としないその異母弟、後三条天皇(1034~天68~73)が継ぎ、中下級貴族を登用して親政を試み、延久の荘園整理令で不正不備の荘園を没収。しかし、病のため、73年、早々に子の白河天皇(1053~天73~上87~法96~1129)に譲位。その母も、その中宮も藤原家の出で、その摂関政治のために、87年には八歳の幼帝、堀川天皇(1079~天87~1107)に譲位。ところが、1099年、関白の藤原師通(1062~99)が38歳で病死。虚弱な堀川天皇も1107年に死去。このため、白河法皇の孫で、やはり虚弱な四歳の幼帝、鳥羽天皇(1103~天07~23~56)が継ぎ、白河法皇が「治天の君」として政治の実権を握ることになる。

もとより摂関政治で現実から切り離されていた白河は、業平や光源氏よろしく、往時より色恋沙汰に没頭し、出所不明、正体不詳の怪しい愛人、「祇園女御」の専横を許す。孫とされる崇徳天皇も、平氏嫡男とされた平清盛も、じつは彼の御落胤とされ、仏門に入っては男色にも手をつけ、親衛隊「北面武士」を作る。まさに儒仏の理非も無い放縦不拘だが、だれもこれを止めるどころか、諫めることさえもできない。

白河は、常々、歌会を開きながら、人の作を自歌と称するほど才無く、残るものも少ないために、その心情、体裁も知られがたい。ただ『千載集』(春下77)に「咲きしより散るまで見れば木(こ)の元に 花も日数も積もりぬるかな」とあるが、これもどこまで自作か疑わしいものの、そこには時間超越的な身の位置が見て取れる。すなわち、うつろな色恋沙汰に明け暮れる有為転変の日々にも動じないほど、さらに空虚的な心持ちを示している。ともあれ、強固に連携した貴族社会にあって、図らず実権を握ることになった我が身が余計な疎まれ者であることに気づかぬわけもなく、それゆえにこそ、その存在を誇示すべく、色恋沙汰に、また、人事横暴に打って出たのだろう。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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