新法党・朱子学・陽明学:エリートに存在意義はあるのか?

画像: photo AC: himiko さん

2018.10.16

ライフ・ソーシャル

新法党・朱子学・陽明学:エリートに存在意義はあるのか?

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/千年も前の中国の話? そんなの関係ない、と言うなかれ。じつは現代日本の政府や大企業、そして社会の問題状況ととても似ている。建前の平等と現実の格差。建前だけを押し通そうとしても、現実はいよいよ動かなくなる。かといって、本音をさらせば、世に叩かれる。いったいどうやって折り合いをつければいいのか。/

同様に、世界もまた性善であるから、本来であれば、理に沿って、すべてうまくいく。しかし、ときにそうでないことがあるとすれば、つまり、理に適っている心に沿わないことが起こるとすれば、それは、世界の方がなんらかの原因で理を外れてしまっている。それを知ることができた以上、善なる理の道に戻るように、それを正してやらなければならない。

朱子において『大学』の八条目の最初の「格物」は、物にいたる、物事の道理を知る、という意味だ、とされたが、陽明は、これを、物をただす、であるとした。また、朱子においては、まず格物、そして致知、さらに平天下にまで修養を広げていくと考えられていたが、陽明においては、もとより平天下以下すべてうまくいっているはず。そうでないとすれば、国をただし、家をただし、身をただし、そして、物をただす。つまり、良知を致す、善を実行することに尽きるとされる。

ここにおいて、知は、他人ごとのように冷めた物事の博覧知識ではなく、自分もまた当事者であるという善悪の倫理意識のことだ。三綱領についても、その善悪を知る良知こそが明徳であり、それを知っているだけでなく、それを明らかにする、実行する、ことが明明徳であるとされる。また、朱子がかってに書き換えた「新民」を原文通りの「親民」に戻し、これを万物万民一体の仁を持つべきことであると考え、止至善は、天地本来の性善の状態を保つこととした。


陽明学の分離

陽明は、この自分の考えを、あくまで朱子が晩年に到達した最終的な真説と考えていた。ところが、主流派は、この陽明の考えが、朱子を批判し、朱子と論争した陸象山に近いことにすぐに気づいた。また、陽明が挙げた論拠が、朱子の晩年の言葉ではないことも文献学的に明らかにされた。こうして、陽明の朱子学学は、異端とされることになった。

しかし、朱子の学説に沿わないとはいえ、朱子の方が凡庸な程頤の理屈っぽい解釈を介することで、その兄の程顥の天才的なアイディアを歪曲矮小化してしまっていることは、これまたもはや文献学的に明らかだった。また、朱子は、王安石と司馬光の新旧論争において、あくまで限定譲歩的に『孟子』の性善説を容認し、そのうえで『大学』や『中庸』を援用して、その万民性善説を現実において否定したが、朱子と孟子であれば、孟子の方が古い以上、孟子の万民性善説の方が優位でなければならない、というのが、古典権威主義的な中国の学問の原理原則だ。朱子ごときがなんと言っていようと、孟子の方が正しい、とする方が理に適っているとされた。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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