新法党・朱子学・陽明学:エリートに存在意義はあるのか?

画像: photo AC: himiko さん

2018.10.16

ライフ・ソーシャル

新法党・朱子学・陽明学:エリートに存在意義はあるのか?

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/千年も前の中国の話? そんなの関係ない、と言うなかれ。じつは現代日本の政府や大企業、そして社会の問題状況ととても似ている。建前の平等と現実の格差。建前だけを押し通そうとしても、現実はいよいよ動かなくなる。かといって、本音をさらせば、世に叩かれる。いったいどうやって折り合いをつければいいのか。/


旧法党の反撃

この新学と新法党の改革は、当然、旧来の儒学を学んできた既得権側の華北士大夫階級から大きな反発を招いた。その中心となったのが、司馬光(1019~86、51歳)。これに劉摯(1030~97、39歳)、程顥(ていこう、1032~85、37歳)、蘇軾(1037~1101、32歳)らの中堅若手が加わり、「旧法党」と呼ばれた。王安石は配下の新法党とともに対決の姿勢を崩さず、旧法党を次々と地方に左遷し、権力を独占して、改革を強引に推し進めた。

74年の大旱魃をきっかけに、王安石はわずか5年で失脚。しかし、政権内部に新法党は根強く残り、混乱を悪化させた。開封の朝廷を追われ、西の洛陽に落ちていた司馬光とそのシンパの「洛党」は、徹底的な反撃を開始し、外野から新法廃止を要求する。一方、河北出身者が多い主流の劉摯ら「朔党」は朝廷に戻って、官僚内で新法党と対立。程顥は、洛陽出身ながら、中央の政争に懲りて、地方官として転々とすることに甘んじ、学問に生きた。蘇軾も、左遷された荒れ地の湖北でなお悠然と詩や書に親しみ、融和寛容な解決を求め、彼を慕う官僚たちが「蜀党」となった。

旧法党は、なにも自分たちの士大夫としての利権を守るためだけに新法に反対したのではない。現実問題として、いくら制度を変革しても、その実務を遂行できる有能な人材は、当時の中国において、地方名家出の士大夫たちのほかに存在していなかったのだ。王安石が新学科挙で在野の逸材を集めようとしたとはいえ、実際の新法党は、従来の士大夫の利得をわがものにして人生の一発逆転を図ろうという、権勢欲に目がくらんだ、うさんくさい小物連中ばかり。学識や公平性、道徳観、指導力という意味では、すでに裕福で鷹揚で、地域での人望を集めている従来の士大夫たちのほうが、はるかにましだった。

もちろん、司馬光も、士大夫ばかりが安穏と裕福になり、庶民が貧しいままで、国家財政が傾くような状況をよしとしていたわけではない。彼は、王安石が中心に据えた『孟子』を、君臣の義を軽んじて革命をも認めている、として批判する一方、「洛学」として、『礼記』(らいき、礼に関する論文集)の中の『大学』を取り上げ、その序の、天賦の才は等しくはありえない、だから世間に秀でた者が庶民を治め教えるべきだ、との節を引いて、王安石の斉民思想を批判。地方振興の原動力として、まさに士大夫たちが必要だ、と主張した。しかし、そのためには、士大夫は物欲を斥け、以下、『大学』に述べられている八条目に従って自己研鑽に努め、ひいては天下を治める気概をも持たなければならない、とした。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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