時代に踊らされるな:ドイツ観念論と革命

2018.11.06

ライフ・ソーシャル

時代に踊らされるな:ドイツ観念論と革命

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/世界理性が人々を使って実験しているのであって、その観念を主導する人間は、自分でやっているつもりでも、じつは世界理性に踊らされているだけ。時代の舞台に登って英雄になる人がいないではないが、ほとんどすべての人は、ムダな流行に酔わされ、大切な本来の自分の人生を失うことになる。/

フィヒテとシェリンク

フランス革命の時代、カントは、認識理性の限界の向こうに実践理性の沃野があることを示した。何であるかに答えは無い。問題は、何にするかだ、と。これを受けて、フィヒテは、自分と対立するものを克服していってこそ、その克服の仕方に独特の自分が定立する、つまり、この事あしらい(タートハンドルンク)こそが自我を作るとした。

たとえば、営業で断られる。断られたから、諦める、というのも、一つの答えだ。だが、答えは、それ一つではない。断られたから、断った理由を聞き出す、という答えもある。それどころか、断られたから、また訪問する、という答えだってある。つまり、答えは問題にあるのではない。自分にある。問題にぶつかったときこそ、自分がどういう人間であるか、答えを出すことになる。

ここにおいて、実在的な自然は、観念的な自我に対立するものであり、実践の永遠の地平線となる。ところが、シェリンクは、スピノザの汎神論やライプニッツのモナド論を踏まえて、奇妙な全体主義的観念論を唱える。すなわち、彼によれば、実在としての全体的自然から観念としてのモナド的自我まで、質として連続で、実在性と観念性の量的相違にすぎない、という。たとえば、植物がある、野菜がある、食料がある、食堂がある、食券がある、カネがある、は、一連の存在の質的な帯を成す。

したがって、すべての存在は一体であり、汎神論的な絶対同一者こそが、万物の本質として存在する。だが、彼によれば、フィヒテの言うように、個々の存在は、この絶対同一者の中で、自分勝手に自己定立して、これらが元の同一者を否定する。当初、同じ自由・平等・博愛の革命をめざしていた民衆が、来たるべき政権のありようを巡って、ばらばらな主張をし、革命の精神そのものが失われていったように。

だが、シェリンクによれば、個々の存在は、共通の同一者があったからこそ、その中に、それぞれの自己定立もできたのだ。つまり、それらは、それら自身には根拠を持っておらず、そのモナド的な断絶は、理論精神や実践精神のばらばらの自己定立では解決しない。そこで、シェリンクは、天才を通じ、美的精神によって、絶対同一者へ、モナド以前の共通精神へ回帰することが求められる、とした。実際、革命末期には、「理性の祭典」などという奇妙な疑似宗教が生まれ、ドイツでもシラーやベートーヴェンが「歓喜の歌」を作り、みんなで合唱している。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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