新法党・朱子学・陽明学:エリートに存在意義はあるのか?

画像: photo AC: himiko さん

2018.10.16

ライフ・ソーシャル

新法党・朱子学・陽明学:エリートに存在意義はあるのか?

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/千年も前の中国の話? そんなの関係ない、と言うなかれ。じつは現代日本の政府や大企業、そして社会の問題状況ととても似ている。建前の平等と現実の格差。建前だけを押し通そうとしても、現実はいよいよ動かなくなる。かといって、本音をさらせば、世に叩かれる。いったいどうやって折り合いをつければいいのか。/

兄の程顥は鷹揚で、広く人望があり、学問においても天才的だった。しかし、85年に死去。おりしもちょうど中央政界から放逐されてしまった弟の程頤は、兄の学説を伝えることで門人を集めた。しかし、だれでも修養で聖人君主(ただの立派な君子ではなく実際の政権を執る天下人)になれる、という考えに固執する彼には、天下全体に神経(「仁」)を張り巡らし、万物万民と喜怒哀楽を共にする、などという兄の超人的な思想を受け入れることができなかった。そこで程頤は、『礼記』の中の『中庸』という論考から、体(無心)が天理に適う中正であればいい、という「敬」の話に矮小化してしまった。

朱子もまた、理想と現実の違いを理気二元論で説明するに当たって、二程子の思想を参考にし、とくに弟の程頤の中庸のアイディアを修養の中心においた。しかし、これには当時から、陸象山(1139~93)が疑問を呈し、二程子の兄の程顥と同様に、力動的な万物万民一体の「仁」を説いて、朱子の静止的な無心の中正、「敬」を批判している。


事上磨錬:善悪の良知を実行実現する

朱子はカント的だ。理気二元論は、いっさいの物質を含まない純粋な世界、「太虚」を想定し、その理に比して、現実は物質による乱れがある、とする。また、心についても、いまだなんの内容を含まない純粋な体を想定し、これが気で乱れていると、実際の用としての情が欲にゆがむ、としている。だから、実際の物事に接する前に、なんの内容をふくまない純粋な体の段階で、気が理に中正する「敬」に整えなければならない、と考えた。

これに対し、陽明はデカルト的だ。何の物質も無い純粋な世界など無い。なんの内容も含まない純粋な心など無い。無心なら心も無い。むしろ心は、つねに内容に付随して起きる。○○がうれしいとか、かなしいとか、○○が無かったら、うれしさ、かなしさの心もあるまい。心の無い心を中正にする「敬」など、意味が無い。

陽明は、朱子の文献の中に、程頤が中庸論では説明し切れなかった兄の程顥の壮大な万物万民一体の仁の思想を見つけてしまった。ここにおいては、程顥がなぜ旧法党であるにもかかわらず、司馬光と違って『孟子』を高く評価したのかも明らかになる。つまり、万民だけでなく、万物もまたすでに性善なのだ。つまり、物質の世界こそが、そのまま天理を体現しており、本来であれば、善なる世界になるようになっている。

人もまた、本来であれば、性善であるから、世界の喜びを喜びとし、世界の悲しみを悲しみとするようにできている。そして、自分が何をすべきかの答えは、外界の物に問うまでもなく、自分の自然な心の中にこそある。しかし、もしそうでないとすれば、心が理を外れてしまっている。それは外界の物に対する性善な人間の知覚と情感、「仁」が欠けているからだろう。だが、人間はむしろおうおうに善、つまり、自分のすべきことを知っていながら、行わないのではないか。そこにこそ大きな問題がある。良知を実行と合一させなければならない。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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