/歴史的な差別を近代が解放した、というのは、捏造された近代の神話だ。むしろ近代化こそが、人間の標準理想像をあまりに狭く画一的に定義したために、同調圧力によって、そのミドルクラスモラリティから漏れる人々を社会から排除し、かえって人権抑圧を引き起こした。この独裁者無き全体主義と戦うために、多くの人道思想家たちが自分自身の人生を賭けて奔走した。/
26.15. 第二次世界大戦:1930-45年
ヨーロッパの荒廃は米国に繁栄をもたらしました。産業を支配する富裕層は、ジャズエイジの贅沢な享楽に浸っていました。靴磨きの少年のような庶民でさえ、わずかな貯えを株式に投資しました。フォードをはじめとする反ユダヤ主義者たちは、ヨーロッパを乗っ取ったユダヤ人が次はアメリカを侵略する、と恐れていました。1929年、ヨーロッパが安定し、イングランド銀行が金利を引き上げると、資金は米国株式市場から流出し始め、10月24日木曜日、株価は突然に暴落し、世界恐慌を引き起こしました。
「みんなが同じように考えば、買い手と売り手のバランスが崩れ、市場が不安定になるのは当然だ。それはユダヤ人の陰謀なんかじゃない」
ハーバード大学のシュンペーター(1883-1950)は、ゾンバルトの創造的破壊のアイディアを一般化し、均衡が絶えず崩れる動的経済こそが健全だ、主張しました。そこで、彼は、銀行による貨幣創造、起業家による破壊調達、市場における革新的結合という三段階を提唱しました。しかし、ケンブリッジ大学の友人、ケインズ(1883-1946)は、現代ではどの銀行も貨幣創造の余力が無く、それが支払能力を伴う有効需要の不足になっている、と指摘しました。車椅子の夫、フランクリンと別居しながらも、エレノア・ルーズベルトは、夫を励まし、最終的に大統領当選へと導きました。彼女は女性パイロットと女性ジャーナリストとともに飛行機で全米を飛び回り、経済恐慌に苦しむ人々の窮状をフランクリンに伝えました。彼女の助言を受けて、フランクリン・ルーズベルト大統領はニューディール政策、すなわち政府による大規模な公共事業を開始しました。これは、支払能力のある最後の消費者、政府による景気刺激策でした。新聞はこれを批判したため、彼は「炉辺談話」として、ラジオを通じ、直接に国民に語りかけました。
「彼の経済政策は、アダム・スミス以来の自由放任原則を覆した」
ヒトラーは獄中で『我が闘争』をまとめ、方針を合法行動へ修正しました。釈放後、彼は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を再建しました。彼の演説は支離滅裂でしたが、催眠術のように人々を魅了し、世界恐慌がナチスを第二党へと押し上げました。ヒトラーは、1932年の大統領選挙でヒンデンブルクに肉薄し、ヒンデンブルクは彼を首相に任命せざるをえなくなりました。1933年、共産主義者が国会議事堂に放火して、議事堂が閉鎖されると、ヒトラーは議会抜きでの立法権を付与されました。1934年にヒンデンブルクが老衰で死去すると、ヒトラーは独裁的な総統となりました。彼は公共事業や洗練されたデザインの制服や建築物で人々を魅了しました。
「彼の思考は支離滅裂だったが、演説やデザインは天才的だった。しかし、しょせん見せかけだけの小人物だ」
ムッソリーニはヒトラーを嫌っていましたが、英国やフランスの反対に直面して、彼と協力することを選びました。ムッソリーニが地中海への勢力拡大を図る一方、ヒトラーも大ドイツの復興にとどまらず、東方への生存圏拡大を計画しました。ムッソリーニとは異なり、その根拠はナショナリズムではなく、アーリア人の奇妙な人種優越主義とユダヤ人差別に基づいていました。しかし、ポーランドもユダヤ人受け入れを拒否しました。1938年、若いポーランド系ユダヤ人がドイツ大使館員を暗殺した事件をきっかけに、ドイツ全土でユダヤ人に対する襲撃が起こりました。この日は「水晶の夜」と呼ばれました。1939年、ドイツはポーランドに侵攻し、ソ連も西進しました。ドイツがフランスを征服し、その結果、英国も参戦し、ふたたび世界大戦へと発展しました。
「亡命や難民を受け入れるのは簡単じゃない」
同じころ、中国と戦争状態にあった日本も、1941年、太平洋で米国を攻撃しました。エレノア・ルーズベルトは、フランクリンの長期政権を常に支え続けました。というより、彼女こそが政権の実質的な担い手であるのを、だれもが知っていました。国民からの請願のほとんどが彼女宛てでした。彼女は、黒人差別を続けていた南部ジム・クロウ法の撤廃のために尽力しました。また、彼女は同性愛にも寛容でした。ヨーロッパでのユダヤ人迫害を知ると、彼らが亡命先を見つけられるよう、あらゆる努力を惜しみませんでした。また、彼女は、フランクリン大統領が日系人を砂漠の強制収容所に収容したことにも強く反対しました。
「なぜ彼はドイツ系やイタリア系の米国人を収容しなかったのだろうか?」
戦争に苦戦したナチスは、劣悪な強制収容所さえもはや維持できず、ホロコーストという大量虐殺に走った。一方、スターリンは、世界中のユダヤ人から経済支援を得ようと、ユダヤ人を歓迎した。ナチスを両側から追い詰めるため、フランクリン・ルーズベルト大統領も、ムッソリーニやヒトラーと同様の怪物独裁者スターリンに莫大な援助を送りました。1943年には、彼はすでに戦後処理のための枠組として国際連合を設立しました。1945年4月、フランクリンは病死しましたが、国際連合はムッソリーニとヒトラーを追い詰め、ヨーロッパにおける戦争を終結させました。しかし、不利な状況にもかかわらず、日本は降伏の意思をいっさい示しませんでした。そこで米国は、広島と長崎に原子爆弾を投下し、数十万人の民間人を殺害しました。最終的に、天皇が日本国民に戦争終結を命じました。
「双方にどれだけの犠牲者が出たのか? これは事故ではなく、人々による、人々のための、人々に対する殺人だった」
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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