近代化と人権の抑圧(前半)

画像: フレデリック・ダグラス(黒人思想家)

2025.11.03

ライフ・ソーシャル

近代化と人権の抑圧(前半)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/歴史的な差別を近代が解放した、というのは、捏造された近代の神話だ。むしろ近代化こそが、人間の標準理想像をあまりに狭く画一的に定義したために、同調圧力によって、そのミドルクラスモラリティから漏れる人々を社会から排除し、かえって人権抑圧を引き起こした。この独裁者無き全体主義と戦うために、多くの人道思想家たちが自分自身の人生を賭けて奔走した。/

26.07. 現実的な人道主義者たち:19世紀半ば

 リンカーンの政治主張は平凡で、選挙権拡大や運河建設に重点を置き、彼の訴訟案件もおもに鉄道開発に関するものでした。しかし、彼は1841年に黒人女性の弁護を引き受けました。イリノイ州は1818年から自由州でしたが、彼女は1813年生まれで、依然として奴隷として扱われていたのです。リンカーンはこの訴訟に勝ち、少なくともイリノイ州においてはすべての人が自由である、という判例を確立しました。同じころ、ペンシルベニア州のクエーカー教徒たちは、オハイオ州、インディアナ州、イリノイ州の他の宗教団体とも協力して、「地下鉄道」を拡大していました。これは、南部アメリカ人が先住民「インディアン」から奪った新領土から、逃亡した黒人を安全なペンシルベニア州まで輸送する秘密組織でした。

「なぜ彼らは先住民インディアンを救わなかったのだろう」

 オハイオ州のカルヴァン派のビジネスマン、オーウェン・ブラウン(1771-1856)は、地下鉄道で最も熱心な奴隷解放運動の「駅長」でした。彼の息子ジョン(1800-59)はペンシルベニア州で道路測量士兼郵便局長を務めており、この活動に多大な貢献をしました。イリノイ州の弁護士リンカーンも、逃亡奴隷とその匿う人々を弁護しました。フレデリック・ダグラスも1845年に自伝を出版し、多くの自由都市、さらには英国でも講演活動を行いました。人々は、彼が「黒人であるにもかかわらず」本を書き、演説をしていることに驚きました。フレデリック・ダグラスは、1847年にジョン・ブラウンにも会いましたが、ブラウンの武力による奴隷解放計画には強い反感を抱きました。

「人々にとって、ジョン・ブラウンにとっても、フレデリック・ダグラスはきっと、歌うロバのような見世物に過ぎなかったのだろう。当時ヨーロッパでは、バクーニンやマルクスも武装革命を計画していた」

 衣料品店で働いていたジョージ・ウィリアムズ(1821-1905)は敬虔なキリスト教徒で、自分と同じ下層の若者たちが悪事や犯罪に走る姿を見て心を痛めていました。1844年、衣料品店経営者たちの支援を受けて、彼はさまざまな宗派のキリスト教徒仲間とともにYMCA(キリスト教青年会)を設立しました。それは、ボランティア活動やレクリエーションを通して若者の生活向上を目指しましたた。この運動はたちまち世界中に広がりました。やがて、バレーボールやバスケットボールといった若者向けの 人気ゲームが考案されました。バプテスト派の伝道師トーマス・クック(1808-92)は、禁酒運動にも取り組み、1851年のロンドン万国博覧会への団体旅行を格安の駅馬車や夜行列車で企画し、人々に酒をやめて旅行資金を貯めるように促しました。これらの企画は大成功を収め、彼はこの禁酒を伴う旅行事業を海外にも展開しました。

「人々を動かしたのは、説教ではなく、娯楽だった」

 産科医も、当時はあまり高く評価されていませんでした。実際、病院での出産は、町の助産師による出産よりも妊産婦死亡率が高かったのです。ウィーン病院のハンガリー人産科医イグナツ・ゼンメルワイス(1818-65)は、病院内に「死の粒子」が存在すると疑い、消毒を行うことで1847年に妊産婦の死亡率を劇的に減少させました。しかし、医師たちは彼の仮説をオカルトだと考えました。さらに、1848年革命による反オーストリア帝国のハンガリー蜂起で、ゼンメルワイスはウィーン病院から追放されました。

「病院に死者の呪いがあるなんていう話は、科学的じゃないでしょ」

 ペンシルベニアへの「地下鉄道」に対抗して、南部諸州は、1850年、逃亡奴隷を犯罪者として逮捕・送還させる逃亡奴隷法を米国政府に制定させました。オハイオ州で育ったカルヴァン派聖書学教授の妻、ハリエット・ストウ(1811-96)は、これに憤慨して、1851年に奴隷制度廃止論者の週刊新聞に、感傷的ながら壮大なエンターテイメントの連載小説『アンクル・トムの小屋』を連載しました。敬虔なトム、闘志あふれるジョージ、そして我が子を救い出すイライザという三人の黒人奴隷を中心とした物語で、イエス、モーセ、マリアといった聖書のモチーフが随所に散りばめられていました。1852年に書籍化されると、飛ぶように売れました。当時普及し始めていた公共図書館のおかげで、読者数は何倍にも膨れ上がりました。ヨーロッパでも、ディケンズ、ジョルジュ・サンド、ハイネ、トルストイといった著名な作家たちがこぞってこの作品を称賛しました。しかし、南部は、アブラハム、ノア、パウロを引用して、聖書は奴隷制度を支持している、と反論しました。

「デュマがすでに大衆向け新聞連載小説を確立していた。彼女はこの形式をプロパガンダにうまく使った」

 同じころ、英国の貴族の出で高い教育を受けたフローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)は、看護師を志し、1851年にデュッセルドルフのフリードナー・ディーコン学校で最新の衛生学と患者看護について学びました。1853年、彼女はロンドンの女宰(ガヴァネス)養老院の経営難を立て直すよう依頼されました。彼女の母親は、女性が働くこと、まして「汚い」看護師として働くことに猛反対しましたが、父親は惜しみなく自分の資金を投じて彼女の活動を支援しました。

「没落貴族の娘たちは結婚できず、新興ブルジョワジーの家の女宰になったとか。でも、彼女たちは、引退後、財産も無く、住む場所も無くなってしまった」

(後半に続く)

純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、東京大学卒(インター&文学部哲学科)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元東海大学総合経営学部准教授、元テレビ朝日報道局ブレーン。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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