近代化と人権の抑圧(前半)

画像: フレデリック・ダグラス(黒人思想家)

2025.11.03

ライフ・ソーシャル

近代化と人権の抑圧(前半)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/歴史的な差別を近代が解放した、というのは、捏造された近代の神話だ。むしろ近代化こそが、人間の標準理想像をあまりに狭く画一的に定義したために、同調圧力によって、そのミドルクラスモラリティから漏れる人々を社会から排除し、かえって人権抑圧を引き起こした。この独裁者無き全体主義と戦うために、多くの人道思想家たちが自分自身の人生を賭けて奔走した。/

26.03. 閉じ込められた人々:16~18世紀

 地方工場は家内産業を駆逐しました。農村の自作農家は衰退し、小作農や都市移住者となりました。しかし、イングランド王ヘンリー8世(1491-th1509-47)は、失業移住者たちを怠惰として鞭打って追放しました。病人と老人だけは物乞いを許されましたが、それにも免許が必要でした。アウグスブルクの富豪フッガー家は、1521年に貧窮者住宅を建てましたが、後に三十年戦争(1618-48)で軍に接収されてしまいました。

「移民はいつもやっかい問題だ」

 たしかに、自分では働かない貴族やブルジョワは、多くの召使や女中を必要としていました。しかし、女は人の数に入らないかのように、彼らは、女の労働者や女中に男性と同じ賃金を支払うことはありませんでした。さらに、宗教改革によって多くの修道院が破壊され、。病人や老人など、働けない人々も都市に押し寄せました。ブルジョワは彼らを追い出そうとしましたが、うまくいかず、結局、彼らは病人や老人だけでなく貧民も収容する病院を建て、そこに彼らを押し込めました。

「ブルジョワは下層の女性を搾取して、自分たちの妻や娘、愛人にカネを費やした」

 ピューリタン革命の間、ジョージ・フォックス(1624-1691)は故郷の村との繋がりを失った都市移民たちに説教を行いました。神は個々人の中にこそ宿る、と彼は教え、カトリック、プロテスタント、英国国教会など、すべての教会を批判しました。彼は冒涜者として何度も逮捕されましたが、「神の前で震えよ」と答えたため、彼の信者は「クエーカー」と呼ばれるようになりました。貨幣経済の発展に伴い、貴族やブルジョワは都市に移って邸宅を建て、都市を再開発しました。とくにロンドンは、1666年の大火の後、ほぼすべて作り直されなければなりませんでした。これらの工事は、さらに多くの移民を新都市に引き寄せ、クエーカー教徒の数も増加しましたが、彼らは迫害されました。海軍提督の息子、ウィリアム・ペン(1644-1718)は、王政復古への融資の返済として新大陸に広大な領土を獲得しましが、じつは、彼自身がクエーカー教徒であり、仲間とともにそこにペンシルベニアを建国しました。

「フォックスは移民たちの孤独を信仰の力に変えた」

 オランダから招かれたウィリアム3世(1650-th89-1702)は、フランス産ブランデーを禁止し、オランダ産ジン製造を奨励しました。それは、低品質の大麦を原料とし、蒸留して針葉樹で風味付けした強い安酒で、都市部の下層の間でとても人気になりました。一方、国際戦争、産業革命、株式ブームの時代、ブルジョワジーの男たちはコーヒーハウスやフリーメイソンのロッジに集まり、活発に情報交換を行いました。彼らは、市場の常識が物事を決定する、と気づき、自分の考えではなく、他人の考えに基づいて行動しました。一方、人と違う奇矯な行動をとる者、政府に反対するリベラル派も、理性の無い狂人とみなされ、癲狂院の牢獄に閉じ込められるべきだとされました。

「ヒューム、トマス・リード、アダム・スミスもまた、常識を社会の基盤としようとしたが、彼らは理性の定義を狭め、それ以外の者を狂人として排除した」

 アベ(独立聖職者)シャルル・ド・レペ(1712-1789)は、ルイ14世(1638-th43-1715)のヴェルサイユ宮殿建築家の裕福な息子だったが、パリのスラム街と豪華なヴェルサイユ宮殿との対比に心を痛めていました。しかし、彼は、スラムで耳の聞えない双子姉妹が手振りでコミュニケーションしているのを見て驚きました。彼は莫大な私財を投じて最初の無料聾学校を設立し、彼女たちの手話を体系的なものに発展させました。ルイ16世(1754-th74-92)の10カ国語通訳であったヴァランタン・アユイ(1745-1822)も、祭りでホスピスの盲人たちが道化帽子をかぶせられてからかわれているのを見て、衝撃を受けました。彼は点字の原型を発明し、レペの助言やルイ16世の支援を受けて、1785年に最初の無料盲学校を創設しました。

「都市は大きく発展したが、見捨てられた者たちが多く残されていた」

 貴族やブルジョワジーの女性たちは、働く必要もなく趣味や贅沢にふけっていましたが、かならずしも幸せではありませんでした。彼女たちの人生は、裕福な夫と結婚できるかどうかにかかっていたので、男子以上に女子は宗教系の女学校で礼儀作法や教養を教え込まれました。しかし、結婚は、たんに財産相続の手段にすぎず、貴族やブルジョワジーの間では、男女ともに公然と多くの愛人を持ち、妻や夫もそれを当然のこととして受け入れていました。彼らは、愛人に惜しみなく爵位や邸宅を与えさえしました。一般庶民にとっても、妻や夫が王族やブルジョワの愛人になることは、使用人や召使の身分から抜け出して、良い生活を送るためのチャンスでした。

「ちょっとめちゃくちゃだけど、いちおう男女平等か」

 いえ、そうではありません。貴族やブルジョワの男たちは、妻や愛人に別の恋人がいようと気にしませんでしたが、女性にも相続権がある以上、けして彼女たちが自分の元を離れることを許しませんでした。男たちが大金を費やした女性たちは、男たちの財産を隠し、税金を逃れるための隠し金庫であり、女性も男たちの所有物とみなされていました。彼女たちは、それぞれの邸宅に隔離され、閉じ込められていました。たとえ財産があっても、彼女たちは、それをかってに処分したり、活動に利用したりすることは許されませんでした。

「富裕層は財産を中世では修道院に隠したけど、近代では愛人の宝石に隠したのか」


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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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