近代化と人権の抑圧(前半)

画像: フレデリック・ダグラス(黒人思想家)

2025.11.03

ライフ・ソーシャル

近代化と人権の抑圧(前半)

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/歴史的な差別を近代が解放した、というのは、捏造された近代の神話だ。むしろ近代化こそが、人間の標準理想像をあまりに狭く画一的に定義したために、同調圧力によって、そのミドルクラスモラリティから漏れる人々を社会から排除し、かえって人権抑圧を引き起こした。この独裁者無き全体主義と戦うために、多くの人道思想家たちが自分自身の人生を賭けて奔走した。/

26.06. 生活改善運動:1800年頃

 それぞれに孤立しながらも、クエーカー教徒は信仰を守り続け、ペンシルベニア州への入植をフィラデルフィアから始め、アパラチア山脈を越え、五大湖地域にまで到達しました。彼らに統一教義はありませんでしたが、簡素、平和、誠実、共同体、平等、そして責任ある管理という原則(SPICES)に基づいて行動しました。アメリカが独立を達成すると、ペンシルベニア州は1780年に奴隷制を最初に廃止しました。自由州は東西に拡大しましたが、先住民である「インディアン」を人間として認めることはけしてありませんでした。一方、ナポレオン(1769-th1804-ab14-21)は、革命で廃止された黒人奴隷制を1802年に復活させ、アフリカとカリブ海におけるフランスの支配を拡大しようとしました。これに対し、英国はは1807年に奴隷貿易禁止法を制定し、奴隷船を攻撃しました。

「人権は政治的な都合で左右された」

 オハイオ州のテカムセ(1768-1813)は、先住民連合を組織し、英国系カナダ軍と同盟してライフルや火薬を入手し、1812年には侵略米国人に対する防衛戦争を起しました。しかし、彼らは敗北し、「平和的な」併合を受け入れるしかありませんでした。南部の五部族はやむなく白人文化に適応しましたが、にもかかわらず、黒人奴隷を使って綿花、タバコ、砂糖で富を築いていた南部の米国入植者たちは、彼らの領土への拡大を望み、米国はは1830年に一方的にインディアン強制移住法を可決しました。五部族は米国人ではなかったかかわらず、この法律によって西部の荒涼とした内陸部の代替地への移住を強いられました。この移住路は「涙の道」と呼ばれています。

「米国人にとって、それはきっと野生動物を山に追い込むようなものだったのだろう」

 古代から、医師は内科医のみを指し、外科手術は汚れ仕事として軽蔑されていました。看護師はさらに、ほとんど世話をせずに高額な報酬だけは要求する、悪辣な酔っぱらいの卑しい女たちと見なされていました。村にあったカトリック修道院が衰退し、弱者さえも収容していた施設が減少するにつれ、町の低位聖職者は「ディーコン(執事)」として教区の福祉に責任を負わなければならなくなりました。一方、プロテスタントでは、この役割は会衆の中のだれかが担いました。オーウェンはニューハーモニー村(1826-28)を協同組合と相互扶助の共同体として建設しようとしましたが、わずか2年で崩壊しました。しかし、オーウェンのヒューマニズムに影響を受けた詩人バイロンの妻アナベラ・ミルバンクは、1834年にロンドン西部に協同組合の信託基金による男子校を設立しました。その目的は、生徒の人間性を育成し、自立して働き生活できる能力を身につけさせることでした。

「彼らはもはや修道院や教会に頼るのではなく、自分たち自身で問題を解決しようとした」

 革命後のフランスがオランダを征服したため、英国はオランダ植民地だった南アフリカに侵攻しました。しかし、そこは複雑でした。オランダ人は黒人奴隷を使ってサトウキビ農園を経営していましたが、白人女性はヨーロッパから来ず、それで彼らは別のオランダ植民地のインドネシアからメイドを連れてきました。その結果、多くの現地住民は、アフリカーナーと呼ばれる混血になりました。彼らは英国による奴隷制廃止に反発し、奴隷を連れて内陸部へと移住しました。一方、多くの英国人が南アフリカに移住し、英国領インドから召使いや労働者を呼び寄せました。

「ここもまた、いずれ紛争の火種となるだろうな」

 厳格なミドルクラスの倫理観と昇進競争は、多くの人々を大量生産の強い蒸留酒に溺れさせ、東インド会社に勤めていたミル(1806~73年)のように、精神的破綻へと追い込みました。貧しい子供たちの教育に尽力していたドロテア・ディックスもまた精神的に落ち込み、精神医療の遅れに衝撃を受け、患者の治療改善に乗り出しました。デュッセルドルフの牧師テオドール・フリードナー(1800-64)とその妻フリーデリケ(1800-42)は、牧師と同様の専門的なディーコン(執事)の必要性を認識し、1836年、彼らは子供や老人、病人を世話する女性たちを育成するためのディーコン養成所を設立しました。

「近代の複雑な問題は、協同組合や若者教育だけでは解決できず、専門家が必要とされた」

 北米入植者たちは西へ侵略を続け、先住民の「インディアン」との衝突が絶えませんでした。貧しい開拓者の息子、若きリンカーン(1809-65)は、除隊後、努力と独学によってイリノイ州で政治家、弁護士になりましたた。同じころ、ボルチモアのソフィア・オールド(1797-1880)は、夫に内緒で黒人奴隷の少年フレデリック・ダグラス(1818-95)に読み書きを教えました。しかし1831年、バージニア州で黒人預言者ナット・ターナー(1800-31)が武装蜂起を起こし、ターナーをはじめとする参加者たちが惨殺されただけでなく、多くの罪のない黒人たちまでも報復として虐殺されました。ソフィア・オールドも教えることをやめざるを得なかったが、ダグラスは独学を続けました。そして1838年、彼はプランテーションから逃亡し、奴隷解放運動家となりました。南部の綿花プランテーションは英国への輸出で莫大な利益を上げていましたが、これはインドの綿花産業を脅かすものとして英国国内で抗議運動を引き起こしました。1840年にはロンドンで世界反奴隷制大会が開催され、アナベラ・ミルバンクのような女性人道主義者たちも参加しようとしましたが、発言を許されませんでした。

「黒人解放を訴える人々が、女性や先住民を人間として認めなかったのは恐ろしい話だ」



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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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