達磨が禅を嗤う:唐代の作務行禅

2021.11.13

ライフ・ソーシャル

達磨が禅を嗤う:唐代の作務行禅

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/禅と言うと、座禅瞑想を思い浮かべるかもしれない。だが、それは違う。日本に輸入されたのは、宋代の呑気な士大夫座禅で、それは最盛期、唐代の作務行禅とは似て非なるもの。ところが、中国士大夫以上にストレスに晒されている武士階級が台頭し、彼らが禅に救いを求めた。その結果、命がけの戦闘や会見という一触即発の中に、武道や茶道として、本来の禅の精神が蘇る。/

 バラモン教の時代からサマナ(修行者)の座禅の主流で、ゴータマ・シッダールタも行ったのは、「白骨観」。それは、死体を目の前に、それが腐敗し骨となって塵と消えるまでの様子を心に焼き付け、生から死、無までを一つながりのものとして捉えることで、生の意味を、その全体の中に位置付け直す。そして、このことを忘れないよう、その死体から剥ぎ取った死体袋=袈裟をみずからまとった。

 また、ゴータマ・シッダールタが正念を確立するために弟子たちに修養を勧めたのは、「四念処観」、すなわち、身・受・心・法の四つの点検。まず、身念では、爪先から髪末まで、ひとつひとつのパーツをつぶさに思うことで、自分が醜悪な肉片の集合体であり、執着するにたらない存在であることを知る。次に、受念では、さまざまな感覚や感情が生じる場面を思い、それらが縁起による一時の現象にすぎない、つまり、実体ではないことを知る。そして、心念では、混然一体の自分の意識や意志を破砕精錬していき、その中の各所に隠れ潜んでいる邪悪な妄想や嫉妬、欲望を徹底して取り除く。最後が法念だが、これは、その後の諸派で解釈が一致せず、五蓋(がい)を除き、七覚支に努め、無我の諸法の方に同調することらしい。

 これが分析好きの説一切有部となると、観の対象が具体的なイメージから抽象観念に代わって、「四十業処観」にも膨れ上がる。すなわち、それは、十遍(地水火風など)、十不浄、十随念(仏法僧など)に加えて、四無量心、四無色界、食厭想、界分別。また、アミターバ信仰では、「般舟(はんしゅ)三昧(ざんまい)」として、極楽浄土の阿弥陀仏を想念する。さらにまた、呪術的な密教では、大日如来の太陽のイメージを中心に、知恵の金剛界、慈悲の胎蔵界の曼荼羅(諸仏楼閣模式図)をつぶさに観じて、内面化し、自身を再構築する。

 しかるに、達磨は「四行法」を教え、「壁観」を説いた。経典学習から入る「理入」も認めた上で、彼は、実践体得から入る「行入」を勧める。この行は、四つ、報冤(ほうおん)行、随縁行、無所求(むしょぐ)行、称法行から成り、まず自分のリアクションを断ち、物事の因果に従い、みずから欲する因とはならず、摂理に即して暮らす。

 この四行は、身・受・心・法の四念処観の座禅を日常生活に展開したもの。ここにおいて、その観想点検の対象は、もはや自身の個々の部分などではなく、まるごとの自分自身という壁。達磨は、同じ南インドのナーガールジュナ哲学の影響を受け、中観の判断中止を壁として具体化し、過剰な分別の越権を杭い止めて、自由闊達な真実相の領域を解放した。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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