達磨が禅を嗤う:唐代の作務行禅

2021.11.13

ライフ・ソーシャル

達磨が禅を嗤う:唐代の作務行禅

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/禅と言うと、座禅瞑想を思い浮かべるかもしれない。だが、それは違う。日本に輸入されたのは、宋代の呑気な士大夫座禅で、それは最盛期、唐代の作務行禅とは似て非なるもの。ところが、中国士大夫以上にストレスに晒されている武士階級が台頭し、彼らが禅に救いを求めた。その結果、命がけの戦闘や会見という一触即発の中に、武道や茶道として、本来の禅の精神が蘇る。/

 この法難において、中国仏教は、バラモン(特権知識人)的インド仏教から大きく転換する。というのも、宮廷や村落から切り離され、山に隠れ潜むことで、仏僧は生活基盤を失ったから。インドのバラモン階級は、働かないことを旨とし、だからこそ、学究や拳法に明け暮れていられた。そして、その僧侶の特権意識は中国の寺院にも引き継がれ、自分たちは読経や座禅に呆けて、仕事は寺男の僧兵たちにさせ、宮廷の保護に甘んじ、必要があれば僧兵たちに村々から力尽くで徴発させていた。しかし、それができなくなった。だが、禅宗は、もとより行禅で、自分たちで作務することに抵抗が無かった。また、天台宗も、一切衆生に仏性を認める立場で、門弟信徒とともに働くのは当然だった。

 581年に南朝を吸収して全土を統一した隋は一転して仏教治国策を採り、全国各地に寺院を建てて、国民の信仰を促した。しかし、みずから作務して僧侶の特権性を否定する行禅を説く慧可は、勢いを取り戻した寺院ににらまれて殺されてしまう。一方、592年、長江中流、舒州の皖公山の僧璨の下に14歳の道信(580~651)が入門。彼もやはり解脱できずに悩んでいたので、僧璨は、その縛っているものを持ってこい、と言って、そんなものは無いことに気づかせた。同じころ、煬皇子(569~帝604~18)が、天台山の智顗(538~98)に帰依し、天台宗として隆盛。

 天台宗の智顗はまた、仏典だけでなく、修養法についても『摩訶止観』として百科全書的な体系化を試みる。ここにおいて、彼は、瞬々の念も全宇宙を反映しているという一念三千の「心観」から、次第(修養階梯)を排して一気に一悟円頓を得ようとする。つまり、これもまた、座禅ではなく、日常の行住坐臥すべてにおいて心観に徹する行禅だった。ここにおいては、阿弥陀仏を心中に観するだけではなく、休み無くその名を口で唱え続ける称名念仏も推奨される。

 618年、隋を滅ぼした唐は、長安市を首都として、道教を国教とし、仏教を排除。しかし、その長安市で、杜順(557~641)が病気平癒などの神通力を持つと評判になり、第二代皇帝太宗李世民(598~帝626=49)に召し出されて「帝心」とされ、広く崇敬を集めた。そして、彼は、天地自然の理法を光の盧舎那仏として尊ぶ華厳宗を立てる。

 一方、禅宗では、道信が四祖となって、630年ころ、遠く長江中流、九江市北20キロの山中に定住して布教。五祖となる弘忍(ぐにん、602~75)とともに多くの弟子を集め、「東山法門」とよばれる一派を成す。同じころ、洛陽市の玄奘(602~64)も、密出国してインド東部のナーランダ大学で唯識論を学び、645年に大量のサンスクリット仏典を持ち帰って、「新訳」として原文に忠実な翻訳に努め、唯識論に基づく新たな法相宗を起こす。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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