/哲学は、もともと語るものではなく、生き方そのものです。だから、彼らの歴史上の生き方を見れば、彼らの思想もわかりますよ。とくに記録にない女性たちの人生を理解するには、実際の歴史から学ぶことが大切です。/
22.02. 特権としてのリバティ:5C BC-4C CE
イタリア半島も、北からのエトルリア人、黒海沿岸からのラテン人、小アジアやペロポネソス半島からのギリシア人が共同でローマ王国を建国したものの、かれらはあいわらずたがいに争っていました。前509年、民衆は王を打倒し、共和制を樹立しました。ここでローマ市民権が制度化され、納税と兵役の義務と引き換えに、家族の保護、パンとサーカス(娯楽)が与えられました。もっとも、この特権は、当初、ローマ生まれの者に限定されていました。
「そのリバティは、世襲有料会員権のようなものだ」
アレクサンドロス大王の早世の後、ローマは、その跡を継いで、周辺へと領土を拡大しました。キュロスやアレクサンドロスと同様に、ローマは、従順な部族には寛大にローマ市民権を与え、かわりに税金と兵役を課しました。逆に、敵対する部族は、武力で征服し、征服奴隷として大農場や輸送業で酷使しました。
「特権を得るか、奴隷になるか、と迫られれば、どの部族だって前者を選ぶよ。ローマがあれほどまで大きくなったのも、当然だ」
しかし、広大な帝国を防衛し、市民特権を享受させる費用は、市民たちの貢献を上回り、ローマは慢性的に財政難に陥りました。結局、地方総督たちは属州を私物化し、帝国の統一性を失わせました。こうした混乱の中、キリスト教は、部族を超越した神の選民の王国の到来を信じました。だから、四世紀になると、皇帝たちはキリスト教を利用してローマ人を再統一しました。
「キリスト教が、ローマ市民権に代わるリバティにとなった」
同じころ、ゲルマン人が、東からローマに移ってきました。かれらは、市民でも、奴隷でもなく、フリーの労働者でした。しかし、ローマ人は、かれらをひどく扱ったので、かれらはついにはローマの諸都市を占領してしまい、もともとのローマ人たちは東のビザンツ帝国へと逃れました。
「フリーダムは、部外者として差別されることでもあったんだね」
22.03. ゲルマン人における平等:4-9C
ゲルマン人は多様な独立部族から構成されていました。しかし、ピレネー山脈を越えて迫り来るイスラム勢力と戦う必要に迫られた際、トップリーダーは、ローマ・カトリック教会に忠誠を誓い、王位を認めてもらいました。ところが、王の支配を嫌った他の小部族のリーダーたちも、部族の土地を教会に寄進して、そこに私設修道院を建てました。そして、修道院長の地位を継承する一族が、修道院の荘園も実質的に私有するようになりました。こうして、平等だった部族共同体は、領主と平民に分断されてしまいました。
「どさくさまぎれに、封建領主たちは、部族の土地を自分のものにしてしまった」
ローマ帝国末期以降、修道院は、自給自足できるほどの荘園を持つ、独立小都市国家のような存在となりました。しかし、修道士たちは、名門出身の知的エリートであり、「祈り、働け」というモットーとは裏腹に、みずから働くことはありませんでした。むしろ、修道院には多くの貧農や小作がいて、かれらは土地を借りて、収穫やその他の労働を提供し、修道院長が管轄権を持って、あらゆる機会に税金を課しました。
「神の下の平等は、どこへいった?」
たしかに、中世社会には、平等など存在せず、王族から乞食、賢者から狂人、荒くれ者から泥棒まで、いろいろな人々が混在していました。ヨーロッパにも、多くのアフリカ系黒人ムーア人が暮らし、貴族の中には彼らの子孫もいました。聖職者でさえ、酒に溺れ、女と関係し、賭博に興じることは珍しくありませんでした。人々も酔って歌い、でたらめな祭りを楽しみました。そこには、道徳を強制する権威もなく、好きなように生きた。そもそも、かれらには道徳なんてなかったのだから。
「それって、かなりぐちゃぐちゃなエデンの園の神話みたいですね。でも、彼らにだって、家族制はあったんですよね?」
ええ。ローマでは、最年長男性、つまり「家長」が、家族の財産、家臣、奴隷だけでなく、子供、さらには妻や兄弟までも支配していました。一方、ゲルマンでは、家族は平等でした。結婚も離婚もかんたんで、夫や妻が無断で家を出ていくこともよくありました。庶子や捨子も多くいました。家族に財産があれば、兄弟姉妹であろうと、年上も年下も、たとえ白痴や狂人だろうと、すべての子供が相続を受け取れました。そして、結婚すると、夫婦の財産は、新しい家族に統合されました。
「かれらは、部族のリバティの中で個人主義だったんだろう」
しかし、キリスト教は、かれらに厄介な話を持ち込みました。パウロは、ユダヤ人ながらローマ市民権を持ち、同性愛的なギリシア哲学を学んでいました。そのうえ、彼は、イエスの母マリアを中心とする女性集団と対立し、アダムをイヴが堕落させたという神話を根拠に、ミソジニー(女性蔑視)を広めました。だから、ゲルマン人のフランク族がローマ・キリスト教を受け入れる際に、女性の地位や相続権を制限しようとしましたが、うまくいきませんでした。ゲルマン人における女性の地位は、以前と変わらず平等で、多くの女王も誕生しました。
「実際、かれらは、パウロなんかより、聖母マリアの方が好きだもん」
そのとおり。領主たちは、多くの修道院を建立し、王権や外国の略奪から財産を守るために、独身の娘を修道院長に任命しました。性別を問わず、修道院には男女の修道士はもちろん、多くの騎士や従者、職人、農民が暮らしていました。修道院は、一種の地域福祉施設であり、貧民、病人、捨子、そして旅人さえ受け入れました。森の中で一人暮らしをし、村人に占いや薬草を提供する風変わりな女性たちもいました。
「なかには女教皇だっていたっていうよ」
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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