/単独者として、私たちは戦争のように、自分で選んだわけでもない歴史的、個人的、そして矛盾した極限状況に陥ることがあります。その時、同席者とのコミュニケーションを通じ、私たちはむしろ、必然性の極限を超えて、超越体と同じ自由を再発見できます。実際、ヤスパースは、ユダヤ人の妻を守るため、ともに死まで覚悟して自宅で籠城したそのとき、米軍がハイデルベルクの街を解放しました。それが実存、自由の出現です。/
27.06. フッサールとベルクソン
数学者フッサール(1859-1938)は、諸科学に危機感を抱いていました。数学はあらゆる科学の基礎であるにもかかわらず、現実から乖離し、その真の意味を示すことを放棄していました。しかし、彼は心理主義にも規範主義にも納得しませんでした。前者は数学を心理的事実に根拠づけますが、数学の意味は人によって異なるからです。一方、後者は数学を理由なく従うべき規則とみなします。どちらも単なる事実(Quaestio Facti)であり、数学の権利(Quaestio Juris)としての意味を正当化することはできません。そこで彼は、数学と科学の共通の基礎、すなわち私たちにとっての現象(Phenomena)を探求しました。
「どうしてだれでも数学の答えが同じになるのか、それはたしかに奇妙だ」
意識のデフォルト装備(natürliche einstellung)では、私たちは物事をそこに存在するなにかとして認識します。しかし、実際には、私たちが受け入れているのは、直接感覚の生データです。意識の機能であるノエシスは、それらをなにかに変換し、外的な存在性を与えます。すると、そのなにかは対象ではなく、意識があらかじめ持っている観念(概念、種)です。この素朴な外的信頼から内的観念への道が、超越論的還元です。
「私たちは物事を外見で判断しがちで、対象そのものにはあまり注意を払っていないのかも」
しかし、観念(ノエマ)のニュアンスは人によって異なります。そこで私たちはノエマの中で多様なものを想像し、重要でない属性を剥ぎ取り、絶対にそうでなければならないものへと絞り込みます。その残ったものが本質です。この作業が形相的還元です。ノエシスとして、我々の意識は、何らかの本質を満たす対象に存在性、すなわち数を与えます。だから、数学と諸科学は必然的に対応し、数学が諸科学にとって持つ意味も証明されました。ところが、フッサールは数学を超えて、我々の意識における時間と空間さえも再構築し、ノエマがどのように生成されるのかを説明しようとしました。さらに彼は、意識に異なる世界を持つかもしれない他者を認識する、という問題に直面し、迷走しました。
「彼は自分を世界創造する神だとでも思っていたのか?」
フッサールの意識分析は、徹底的に数学的な作業でした。しかし、ベルクソン(1859-1941)は、こうした科学的、数学的な類推が問題の原因だ、と非難しました。たしかに、外界は量的な拡張であり、事物は数のように個別に存在するが、意識には大きさがない。意識は多様な質的感情の混沌から成り、それらが合わさって時間的な持続を形成しています。逆に、外界には時間は無く、つねに現在にのみ存在します。動きや変化は、知覚を通して記憶が強化され、重ね合わされたにすぎません。
「強力な論敵が現れた!」
数学的法則を絶対的なものと信じる決定論者だけでなく、規則に従わないという人間の可能性にのみ自由を見出すカントのような自由意志論者でさえ、真の自由を見失っている。真に存在するのは心でも体でもなく、多様なイメージの純粋持続である。それは過去や外界に束縛されない自由意志を行使する。ベルクソンは、この純粋持続が社会にも生物にも存在する、と論じ、何にも束縛されない、みずからの自由意志の回復を求めました。
「それは一種の観念論であり、ナチズムの匂いもする」
哲学
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大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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