/ヤスパースは言う、暗闇の中でこそ、そこに自分の実存照明が自覚される、と。映写機の電球が切れ、世界という劇場が闇に戻ってしまったとき、きみの目はなお、その、ただあるだけの白いスクリーンを見ることができる。そして、闇だからこそ、きみはそこに新たに、まだありもしないものを「妄想」することもできる。/
存在は、世界の同義語として、古来、我々の生きる足場と見なされ、神の摂理を担う運命、それどころか、汎神論として神そのものとさえ考えられてきた。ところが、サルトルは、ただあるだけのモノの無意味さに嘔吐した。とくに、彼が捕虜収容所から解放され、帰国したときのパリは、ナチスドイツ占領下にあって、すべての店は締まり、住民たちは逃げ、友人知人も捕まって、ただ、ある、というだけの死んだ街だった。
それより前、ヤスパースは、なにかわからないもの、かりにそれを世界以上のなにかとして超越体と呼ぶなら、世界など、ただその超越体の現象にすぎない、と論じた。つまり、それは、虹か幻のように実体を伴わない、我々の目に見えているだけのもの、ということだ。そこに我々は、dasein、出席者として居合わせている。いわば、安楽に映画館のイスに座って、スクリーンを眺めているだけのようなありさまだ。
しかし、たとえば、映写機の電球が切れれば、目の前にあるのは、ただ白いスクリーンだけだ。美しい景色も、心躍る物語も無い。それは、ただあるだけの無意味な存在。とはいえ、我々が居合わせているのは、ほんとうは、そんな場所。ちかちか光る映像に、目を眩まされていただけ。
だから、フッサールは、このまばゆく、きらめかしい世界にあっても、ちょっと心の電気を消してみろ、と言う。現象学的還元だ。自分がそこにあると思っていたもの、それはどれひとつ、実在しない。いや、それどころか、先のサルトルで言えば、自分自身こそ、そこにありもしない無の夢だ。いまも、そんな無の夢が、さらにその向こうの夢を見ている。ちょっと風が吹けば、明日には消えてしまう。
だが、ヤスパースは言う、暗闇の中でこそ、そこに自分の実存照明が自覚される、と。映写機の電球が切れ、世界という劇場が闇に戻ってしまったとき、きみの目はなお、その、ただあるだけの白いスクリーンを見ることができる。そして、闇だからこそ、きみはそこに新たに、まだありもしないものを「妄想」することもできる。世界がなにかわからない超越体の現象であるように、きみもまた、ひとつの有機交流電燈の光として、まさに夢を投影して現象させることができる。
物語は、まだ終わってはいない。きみがまた始めるからだ。そんな暗闇こそ、きみがきみの物語を始めるべきときだ。きみもまた、なにだかよくわからない、この超越体だか運命だかの一端として、このろくでもない世界のただ中に居合わせた。そのことには、意味がある。もちろん、その意味がなにか、なんて、だれかが教えてくれるものではない。それこそ闇がきみ課した、最大の謎解きだ。さあ、きみには見えるだろ、闇の向こうに、虚無の向こうに、これからかがやく、このすばらしい世界が。
純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、東京大学卒(インター&文学部哲学科)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元東海大学総合経営学部准教授、元テレビ朝日報道局ブレーン。
哲学
2025.03.31
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2026.01.17
大阪芸術大学 哲学教授
美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。
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